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このホームページの開設時からこの項目はずっと空白にしていた。当初は、歴史上のことについて、時に応じ感じたことを記載するつもりでいたが、これがなかなか難しい。自分だけのメモならよいが、多少は他の方にも見られると思えば正確を期さなければいけない。そこで少し方針を変更して、1853年(嘉永6年)にペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航した年から現在までの年表をあたかも新聞を読むかの様に読み、この時代を仮想的に追体験する事にした。問題になっている「新しい歴史教科書」など、歴史書は色々とあるが、歴史観により歴史の見方が変わってくる。自分の頭で考えてみたいと思ったからである。
1853年(嘉永6年)
ペリーが軍艦四隻を率い浦賀に来航(6/3)、武力行使を示唆しながら、強硬に米国大統領の国書を受け取るように要求、幕府は従来からの法を破り、止む無くこれを受け取った(6/9)。明春の再来を約して浦賀を去る(6/12)。幕府は、ペリーの来航を朝廷に奏聞(6/15)、国書訳文を朝廷に提出した(7/12)ので朝廷内の議論が沸騰した。
同年、プチャーチンの率いる四隻の露国艦隊も長崎に来航(7/18)、贈物も持参して穏和な態度で国書の受領を求め、幕府はこれを受理した(8/19)。老中・阿部正弘(34才、備後(広島県)・福山藩主)は、米国国書の返書について、前例のないことだが、諸大名ほか幕吏等に意見を求めた(7/1)。又、海防のため品川沖に、台場11ヶ所を築立することを命じ、水戸藩主・徳川斉昭(53才)に海防の幕府参与を命じた(7/3)。斉昭は、海防の大本について方針を主戦とし、挙国で武備を拡張すべしと建議した(7/8)。薩摩藩主・島津斉彬(44才)が、艦船建造とオランダ人から兵書、武器購入の許可を求めたが、幕府は艦船建造のみ許可して他は保留した(8/29)。幕府は大船建造の禁令を解き、幕府の許可のもと建造せよとの令を発した(9/15)。幕府は米国国書に対し、諾否を明答せず退去させることとの徳川斉昭の主張をいれ、諸侯を営中に集め、海防の大号令を発した(11/1)。この年、長岡藩の越後栃尾地方で農民一揆。米国国書の内容は、「日米両国の通商、商船・捕鯨船へ石炭・食料を供給する港を開くこと、難破船員の保護」を求めている。
「感想」
米国国書の内容は、現在の見方では、どうということもないものだが、約200年間続いた鎖国政策に対し、力ずくで開港を迫るものであり、黒船の武力をちらつかせるやり方に、どう対応すべきか苦しんだのであろう。幕府の役人、武士、町人など、初めて目にする黒い巨艦の出現に驚き、大騒ぎになった様子が想像できる。
1854年(嘉永7年・安政元年)
ペリーの率いる米艦7隻が再来航、江戸小柴沖に投錨(1/16)。幕府は当初は漂流民保護・薪水食料の供給のみ是認し、通商条約は拒否する方針で、交渉をぶらかそうとしたが、ペルーは強硬で、遂にアメリカ主導のもとで日米和親条約を締結(3/3)、更に条約の施行細目と言うべき下田条約を結んだ(5/25)。米艦は下田沖に退去し(3/21)、次いで函館に入港した(4/21)。
長州藩士・吉田寅次郎(松蔭)(23才)、金子重輔が海外密航を企て下田沖に停泊中の米艦に乗船しようとして失敗、自訴して縛につき(3/28)、関係者として佐久間象山(43才、1842年(31才)に主君・真田幸貫が老中海防掛に就任、その顧問となり、海外事情の研究を始め、34才の時から蘭学を学ぶ。1851年(41才)から、江戸で塾を開き、西洋砲術、兵学を教えた。松蔭は弟子)も投獄された(4/6)。日米和親条約に次いで日英和親条約(8/23)、日露和親条約(12/21)を締結。大船建造に伴い、外国船と識別できる様に日章旗を掲げる法令を出した(7/9)。この構想は薩摩藩主・島津斉彬(45才)が幕府に提案したものである。薩摩藩は1609年に琉球に侵入、琉球を実質的に支配していたが、形式的には独立国として中国との交易関係を維持していた。弘化元年・1844年にはフランス、弘化2年・1845年にはフランス・イギリスの軍艦が琉球に現れ開港を要求しており、早くから薩摩藩は開国止む無しと考えていた。露艦ディアナ号が下田津波で破損、駿河国沖で沈没(9/18)。幕府は江戸の築地鉄砲州ほか6ヶ所に講武所を設置、改正軍法による訓練、洋式砲術の習得を命じた(12/6)。幕府は沈没したディアナ号の代艦を伊豆の戸田村で建造することを許可、加えて幕府の軍艦を1隻建造、君沢型と称した。この建造により、日本の船大工たちは洋式大船建造の技術を習得できた。徳川斉昭の建策と幕府の奏請により、朝廷が毀鐘鋳砲の太政官符を諸国司宛に発し、幕府の布告も出されたが全国の僧侶のつよい反対で実行されなかった(12/23)。
「感想」
上記を見るとき、幕府は、必死に軍事力を強化しようとしていることがうかがえる。又、思いがけない発見で笑ってしまったが、大東亜戦争の時、寺院から鐘、其の他学校などから銅像などを供出させ、武器製作の材料にしたが、同じことがこの年幕府から布告され、僧侶の反対で実施されなかったこと。布告の強制力、権威は必ずしも高くないようだ。面従腹背、のらりくらりで無視などが通用していたのだろう。法治国家とはなっていない。徳川斉昭は、国書への回答について、こののらりくらり策を提案、幕府はペリーに対しやろうとしたが、通用しなかった。沈没したディアナ号の代艦の建造に際し、幕府の軍艦を1隻建造して、洋式大船建造の技術を習得するなど、よい知恵を持っていたと思う。
1855年(安政2年)
幕府は勝安房(32才、剣術師範・島田の勧めで西洋兵学を志し、1850から自宅で蘭学塾を開く、海舟)、小田又蔵らに異国応接掛手付蘭書翻訳御用に任じ(1/18)、洋学所を設立、古賀謹一郎が初代頭取となった。福沢諭吉(21才)が大坂の緒方洪庵の適塾に入門、蘭学修業。米国タウンゼント・ハリスを日本駐在総領事に任命(6/22)。幕府、江戸湯島鋳砲場で洋式小銃を製作、各藩の需要に応ずると布達(6/29)。幕府、オランダ国王から寄贈された汽船スンビン号を受領、のち観光丸と命名。江戸に大地震(安政大地震とよぶ)(10/2)、死者は町方と武家あわせて6000人余となるがそれにとどまらない。直下型地震。24ヶ所から出火。幕府は旗本及び諸藩士、庶民に蝦夷地移住を許し、給資開拓を令した(10/14)。幕府、長崎で海軍伝習を開始。教官はオランダ人で、オランダ国王から寄贈されたスンピン号を使用、乗組員22人を雇用、教官に任命。長崎に航海練習所を設け、海軍の基礎を創った。この伝習生の中に、勝安房、榎本武揚(19才)など幕吏、五代才助、川村与十郎らがいた(10/24)。徳川斉昭に抜擢され反射炉建設計画にあたっていた南部藩鉄砲方大島高任が釜石で反射炉1基を完成(11/24)、翌5月に溶解に成功。近代製鉄業の始まりで本格的な鉄砲鋳造が開始された。日蘭和親条約締結(12/23)。
「感想」
幕府は、外国事情の勉強の必要性を認識、オランダ語の翻訳、洋学の学習機関を創った。又、長崎に航海練習所を造り、唯一長崎を窓口にして交流していたオランダに訓練について協力を求め、オランダも協力した。鉄砲鋳造のため、反射炉の築造に成功した。遅れ馳せながら、着々と軍備・戦力の強化、対外国体制を強化し始めた様子がわかる。
1856年(安政3年)
幕府、江戸大地震で焼失した洋学所を飯田町九段坂下に再興、蕃書調所と改称(2/11)。頭取に儒者・古賀謹一郎ほか教授を任命、洋学の教育、翻訳、統制にあたった(3/24)。幕府、築地鉄砲州に講武所の施設を完成。4/13より始業、幕臣及びその子弟に剣鎗術・水泳など在来の武芸および洋式砲術を教授した(3/24)。老中が江川秀敏の銃隊調練を江戸駒場で閲兵した。函館に上陸の英艦シビル号の乗組員数十人が市中各所で暴行をはたらいた(5/1)。函館奉行、蝦夷人を役土人、平土人と呼ぶこととし、日本語の習熟、内地人との同化を奨励(5/21)。幕府はあらたに翻刻・出版する洋書および翻訳書は、すべて蕃書調所へ提出、検閲を受けるように布達した(6/13)。備前・岡山藩で穢多の衣類を渋染めか藍染めに限定するとの「別段御触書」に反対、一揆が起き、御触書は空文化した。(渋染一揆)(6/13)。幕府、各個人所蔵洋書の書目を蕃書調所に届出させ、その翻訳完了の分は各一部を提出するように布達(6/26)。駐日米国総領事ハリスが軍艦サン・ゼシント号に搭乗して下田に来航した(7/21)。幕府は予期せぬハリスの来航に驚き、条約を典拠に上陸を拒否したが、ハリスの強硬姿勢に折れ、上陸を許可、下田郊外の玉泉寺に宿をとり星条旗を掲げた(8/5)。幕府は、ハリスとの交渉に出先の下田奉行をたて、下田奉行はのらりくらりの対応をした。ハリスは江戸での直接交渉を要求、老中に書簡を送ったが、ことごとく無視された。オランダ理事官・クルチウスが英使節の渡来を知らせ、幕府に各国との通商条約締結を勧告した(7/10)。幕府はクルチウスの勧告に対し、評定所一座、海防掛に交易方法の評議を命じた(8/4)。また10/17老中・堀田正睦(46才、佐倉藩主、藩士教育に蘭学を取り入れ、洋式兵制を採用など蘭癖と言われる)を外国事務取扱に(10/17)、次いで堀田正睦以下若年寄・本多忠徳ほかを外国貿易調掛に任命し(10/20)。吉田松蔭(26才)、禁固中の杉家で「武教全書」の講義を開始(8/22)。松下村塾の起源である。教科書など特別な特徴は見られないが、講義の形態は独特で、机に向かって書物を読ませるばかりでなく、草取り、大工仕事、米つきなどをしながら教えたといわれる。講義していて感きわまると落涙して、声をふるわせたという。その熱情が門下生に伝わっていったのであろう。門下生の多くは、藩校にいく資格のない下士、足軽達だったが、藩校の教育にあきたらない高杉晋作のような上士層もいた。鷹司政通、徳川斉昭の内報する外交事情を武家伝奏・三条実万らに知らせ、斉昭の書面を天皇に提出した(10/3)。長崎の海軍伝習監察・永井玄蕃頭尚志、留学生を西洋に派遣することを幕府に建議した(10/5)。
「感想」
この年の動きを見ると、幕府も老中・堀田正睦を今の外務大臣的ポストにつけ、外国貿易についての調査も開始、洋学の教育も始め、海軍の訓練、軍備・訓練の洋風化にも取り組み始めている。オランダ理事官・クルチウスは幕府に対し各国と通商条約を結び、事を荒立てないように忠告している。吉田松蔭が禁固中の身ながら講義を始めた事は特筆できる。これも禁固といってもきびしいものではなかったらしい。建前と実態の乖離がここでも見られる。松下村塾の実態を見ると、身分の差別なしに、優秀な向上心のある若者が入学でき自由に勉強できたと思われる。幕藩体制下では、士農工商の身分が厳しく守られていたと一般的には思われているが必ずしもそうでもないようだ。