1929年(昭和4年)

旧労農党の代議士の山本宣治が治安維持法改正案が衆議院で事後承諾案として衆議院を通過した3/5の夜、右翼団体「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。3/15、東京や京都で渡辺政之輔、山本宣治追悼労農葬が開かれたが、この葬儀に集まった勤労大衆のうち数百人が検束された。6/27、田中義一首相は、満州某重大事件の処置について、天皇の信任を失い内閣は総辞職をした。9/29、田中義一は死亡、10/12、政友会総裁は犬養毅を選出した。7/2、幣原が外交、井上財政を二大柱とする浜口雄幸民政党内閣が成立、対華外交刷新、軍縮促進、財政整理、金解禁断行などの10大政綱を発表した。4/16、全国的に共産党関係者が大量に検挙され、合法組織としてほぼ壊滅的な打撃を受けた。11/1、新労農党が結成され、大山郁夫が党首に選ばれた。6/3、政府は中国国民党政府を承認した。10月、生糸の価格が暴落の様相を見せ始めた。11/3、朝鮮全羅南道の光州で反日学生運動が起り、全国にひろまっていった。

感想

10/24、ニューヨーク株式市場の大暴落から、世界恐慌が始まり、日本でも生糸価格が暴落し始めた。田中義一内閣が、張作霖の爆殺にからむ関東軍河本大佐らの処分について、天皇の不信をかい総辞職をした。天皇は軍部独走について、不快感を抱いておられたものと推察される。しかし、天皇の叱責が内閣総辞職など大きな影響を及ぼしたので、その後は決定的な発言を控えるようになられたと言われる。明治、大正、昭和天皇に近かった元老の西園寺公望は若い頃、フランスに留学、中江兆民とも交流があり、比較的にリベラルな思想の持ち主で、軍部の台頭を嫌っていた。その影響を天皇は受けていたと想像される。

1930年(昭和5年)

生糸相場の下落が続き、紡績連合会の操業短縮が続いた。政府は業界の要請に応じ、糸価安定融資補償法を発動(3/8)、6月までに1億500万円にのぼる融資をした。2/20、第17回総選挙で、金解禁が好感され、与党民政党が楽勝、政友会に99議席差をつけ273名の絶対多数を獲得。「温情主義」「家族主義」で知られた鐘紡が不況に勝てず、23%の賃下げを発表、大争議になったが、最終的には会社の方針を認めさせた(4/5〜6/5)。ワシントン会議で締結された主力艦の制限条約についで補助艦の制限を行うロンドン軍縮会議は、全権の財部彪海相ほかが不満を唱えたが、主席全権の若槻礼次郎元首相はこれを抑え調印した(4/22)。これに対し、野党の政友会、海軍軍縮同志会、海軍軍令部長加藤寛治らは統帥権干犯だとして政府を攻撃した。枢密院の軍縮委員会は、政友会その他の反対があったが、浜口内閣の必死の抵抗で条約批准を可決した(10/2)。中堅将校の組織として、桜会が結成され(9月)、橋本欣五郎中佐を中心として「国家改造を目的とし、必要なら武力行使も辞さず」との鮮明な目標をかかげた。11/14、浜口雄幸首相は東京駅頭で、愛国社社員の佐郷屋留雄に撃たれ重傷をおつた。愛国社は岩田愛之助が主宰しており、岩田は桜会に加入していた。佐郷屋の裁判は、背後関係を深く追求せず、昭和8年に死刑判決が出たが、恩赦で無期懲役となり、昭和15年に仮出獄して政治活動を始めている。

感想

ワシントン会議、ロンドン軍縮会議での海軍の装備についての軍縮は海軍内部に不満を残し、条約派、艦艇派の対立を招き、又、野党は政争の具とした。明治憲法の不備を楯に取り、陸海軍は天皇の直接の統帥下にあるものだとして、政府からの統制を排除、独走を始めるきっかけとなった。橋本欣五郎中佐を中心にした中堅将校からなる桜会が結成され、国家改造の為なら武力行使も辞さずとの目標を掲げ、言論、思想の自由はこの面からも抑えられた。現実に、浜口雄幸首相が東京駅頭で襲撃され、重傷を負いそれが基で死亡したが、事件の背景はあまり追求されなかった。軍の横暴が通り、言論、政治の自由が暴力により左右されるという軍ファッシズム右翼 テロリズムのまかり通る暗い時代になった。

1931年(昭和6年)

ロンドン軍縮問題で、幣原臨時首相代理が、「条約は天皇の名で批准されている。それが、条約が国防に支障がないことのあかしである」と答弁、野党は「責任を天皇に転嫁するもの」と反発、議場は混乱した。3/10、浜口首相は負傷をおして登院、幣原の臨時首相代理を解くが野党は浜口の辞職を強く要求した。桜会の大川周明らの軍部クーデターによる宇垣内閣樹立の企てが発覚した(3月事件)。政府の恐慌対策として、重要産業統制法を制定、重要な産業を中心にカルテルをつくらせた(4/1)。日本染絨(株)のストライキで200人全員がハンガーストライキに突入した(4/20)。浜口首相が病状悪化のために内閣総辞職し、若槻礼次郎が民政党総裁に就任すると共に、第2次若槻内閣を組織した(4/13)。大地主義、兄弟主義、勤労主義をかかげていた橘孝三郎の愛郷会は水戸市郊外に愛郷塾を作った(4/15)。政府は官吏の俸給約一割減を決め、反対を押し切り勅令として公布した(5/27)。黒龍会を中心とした右翼勢力が大日本生産党を結成、総裁に内田良平が就任した(6/28)。長春西北30キロの万宝山に入植していた朝鮮人と中国人農民の間で用水路建設に関しトラブルが起きた。中国官憲が朝鮮人のリーダーを逮捕。これに日本領事館が抗議、7/1、7/2の両日両者間で発砲騒ぎが起きた。朝鮮人多数虐殺と伝えられ、朝鮮在住の中国人に報復テロが加えられた(7/3〜7/5)。背後で煽動したのは日本だとして中国人は各地で反日運動を始めた。此の頃、参謀本部から諜報任務で派遣されていた中村震太郎大尉が関玉衡の部隊に殺害された(6/27)。幣原首相は外交交渉で解決しようとしていたが、日本陸軍は軍隊を派遣して解決する作戦をたて、外務省の了承をとりつけた。全日本愛国者共同協議会の代表が、外務省の幣原軟弱外交に抗議文をつきつけた(7/10)。軍司令官、師団長会議で南次郎陸相が満蒙問題の積極的解決を訓示、これが軍の外交干渉として問題化した。軍部横暴の声に対し、軍はソヴィエト5ヵ年計画の脅威、大陸における日本権益の危機を大々的に宣伝し始めた。奉天の北8キロの柳条溝で満鉄のレールを破壊し、中国軍の仕業だとして関東軍は行動を起こした。政府は不拡大方針を決定したが、現地の板垣参謀は吉林省に出兵(9/21)、奉天の軍備を薄くして、林銑十郎司令官の朝鮮軍の越境を誘った。9/22、政府は事後承諾のかたちで朝鮮軍の満州派遣を決定、戦費の支出も認めた。満州事変に対し、全国労農大衆党は中国出兵反対闘争委員会を結成、日本商工会議所は中国権益擁護、排日運動絶滅を決議した(9/22)。桜会など陸軍急進派は、10/24クーデター決行し、荒木貞夫陸軍中将が首相になる予定だったが、陸軍中樞に察知され橋本中佐以下の中心人物が逮捕された(10/17)。政府は関東軍による満州独立に反対だったが、関東軍は天津にいた溥儀を脱出させ、船で営口から大連に向った(11/10)。内務大臣の安達謙藏は政府、政党、軍部が協議、協力すべしという協力内閣論を発表するが、若槻首相はこれを拒否、辞職勧告も拒否され閣内不統一で総辞職した(12/11)。政友会の犬養毅が内閣を組織した(12/13)。国際連盟理事会が13対1(日本)で日本軍の徹退を決議した。   

感想

私の生まれた昭和6年は、日本の将来を左右した年であった。関東軍は、政府のコントロールから逸脱し、謀略による柳条溝事件を起こし、満州事変を開始した。軍事的には満州を制圧し、成功したが、国際連盟理事会は、日本の撤退を決議した。客観的にみても、満州への進出は、大義名文に乏しく、今後の日本のあり方に禍の種を残した。それは、イラクがクエート進出して、国際的に非難されたのと同じだと思う。戦勝の連続で高ぶることなく、日本の将来についてどうあるべきか哲学的に思考すべきだった。民衆もマスコミも陸軍の満州での行動、成功に喝采していた様で、陸軍の独走に歯止めが掛けられず、昭和20年の敗戦までのレールを走り出した様に思う。

1932年(昭和7年)

1/3、関東軍が錦州を占領した。1/7、陸軍は満州独立の方針を関東軍の板垣征四郎に指示した。1/28、日本海軍の陸戦隊が中国19路軍と戦闘状態に入った(上海事変)。背景に日本軍特務機関の謀略があった。2/1、閣議は陸軍の上海出兵を決議した。満州国建国宣言を出した。首都は長春、執政は溥儀、国旗は五色旗。国際連盟日華紛争調査委員会(リットン調査団)が中国の提訴に応じ、約半年の調査後「リットン報告書」をつくりあげた。東宮鉄男陸軍大尉の発案で、「拓務省第1次武装移民団」492名が大連に上陸した(9/8)。日満議定書が調印され、日本が正式に満州国を承認した(9/15)。2/9、井上準之助前蔵相、3/5、三井合名の理事長団琢磨が射殺された。5/15、内大臣牧野伸顕邸、警視庁玄関、日本銀行、三菱銀行、小松川などの変電所が襲撃され軽度の破壊。犬養首相も襲撃され死亡した(5・15事件)

感想

関東軍が独走し満州事変を起こし、溥儀を担ぎだして満州を建国、5・15事件で倒れた犬養内閣の後を継いだ斉藤実内閣は満州国を承認した。テロにより、要人を殺し、政府を転覆させるという暗い時代に走りだした。この動きを抑制できる勢力が不在となった。