1933年(昭和8年)
街頭で演説中の小林多喜二が逮捕され、拷問のすえ虐殺された(2/20)。日本軍が山海関を占領(1/3)、熱河省の中国軍の撤退を要求、省都の承徳を占領(3/4)、次いで長城線に達し、国民政府軍と交戦した。第1回越境(4/10)、第2回越境(5/7)。塘沽停戦協定が成立(5/31)、これにより長城以南に中立地帯が生まれ、満州国と中国本土の分離が確立した。陸軍省が「国連脱退も辞さぬ」と声明(1/22)、国連で対日非難案が上程(2/13)、続いて対日非難勧告が可決され、松岡洋右全権代表が退場(2/24)、3/27に正式に国連を脱退した。京大滝川幸辰教授の「刑法読本」「刑法講義」が内乱を煽動、姦通を許容する恐れありとの理由で内務省から発売禁止処分を受けていて、4/22には文部大臣・鳩山一郎は京大総長小西重直に滝川教授の辞職を要求。これに対し法学部教授会、学生が抵抗したが、右翼などの介入もあり、遂に文部省の要求が通った。無期懲役刑で服役中の佐野学、鍋島貞親が転向声明書を発表した(6/10)。その後、既決党員の393人中133人が転向した。興国同志会の天野辰夫、大日本生産党員鈴木善一、陸軍中佐安田銕之助らによるクーデター計画が発覚し内乱罪が適用されたが実刑は免除された。
感想
満州国の建国、余勢をかって日本陸軍は華北に侵攻。満州国を認めない国連から脱退、世界から孤立の道を選び昭和20年の敗戦までの道を歩みだした。思想、学問の自由は抑圧され暗い時代だと思う。当時の国民世論、マスコミは松岡洋右を英雄扱いにして、国連脱退に拍手喝采した。反対派は居たであろうが抑圧された。
1934年(昭和9年)
武藤山治経営の時事新報が「番町会を暴く」なる記事を掲載、番町会が話題になった。帝国人絹の株式処分をめぐり番町会メンバーに不正ありとする時事新報の記事が発端となり、政、官、財界の関係者が攻撃され逮捕された。その為に、斉藤内閣が総辞職(7/3)、岡田啓介内閣が発足した。永田鉄山が陸軍軍務局長に就任(3/5)。荒木貞夫陸相の病気辞職とあいまち陸軍の中で、皇道派を押さえ統制派進出の色彩が明らかになってきた。陸軍が「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットを政府の手を経ず、各所に大量に配布した(10/1)。8月に陸軍省は在満機構を拓務省の管轄からはずし、関東州及び満鉄付属地の行政権を関東軍司令兼全権大使の元に一元化しようという改組原案を発表した。陸軍の皇道派青年将校が、士官学校の生徒を募ってクーデターを計画しているとして村中、磯部、片岡の3名が検挙されたが軍法会議では不起訴になった(士官学校事件)。満鉄で特急「あじあ号」が運転開始(11/1)、丹那トンネルが開通(12/1)鉄道技術の成果を示した。
感想
帝人事件は昭和12年に全員無罪となった。これは枢密院副議長で検察のボスであった平沼騏一郎が斉藤内閣を倒すために仕組んだ謀略であった。陸軍は政府の承認のないパンフレットを勝手に配布。満州の統治を中央のコントロールから完全にはずすための計略を巡らせた。士官学校事件も統制派による皇道派を抑える謀略とも考えられる。陸軍の暴走、謀略の渦巻く無政府状態を示し、政治の中枢が存在しない信じられない嫌な時代である。
1935年(昭和10年)
蓑田胸喜らの国体擁護連合会が美濃部達吉に対する攻撃を開始した(1月)。江藤源九郎代議士は、衆議院予算委員会で美濃部の著書「逐条憲法精義」の発禁を要求、天皇機関説排撃が本格化し始めた。政友会、民政党、国民同盟提出の「国体明徴決議案」が衆議院で満場一致で可決された(3/23)。日本の強い軍事力をバックに国民政府と梅津・何応欽協定(6/10)を結び「河北省からの中国軍の撤退」、更に土肥原・秦徳純協定(6/23)を結び中国チャハル省における中国軍の撤退を決めた。皇道派の真崎甚三郎教育総監が統制派と対立、辞職させられた。相沢中佐(皇道派)が軍務局長の永田鉄山少将を斬殺した。広田外相と蒋中国駐日大使が会談、「満州国の承認」「抗日運動の中止」「赤化防止」の3件で同意に達した(10/7)。冀東防共自治委員会が長城以南の非武装地帯を支配し、国民政府からの独立を宣言した(10/21)。冀察政務委員会が河北とチャハルの2省を支配し宗啓元が委員長になった。
感想
軍部を批判していた美濃部達吉の天皇機関説が軍部、右翼更に衆議院などで批判され美濃部は抵抗したが最終的には貴族院議員を辞めることになった。日本陸軍の中国への侵略行為は益々露骨になった。陸軍内部の統制派、皇道派の対立、争いは激しくなりテロ行為も生じた。言論、学問の自由は抑圧され、中国への侵略行為は進み抑制する勢力は無くなってきた。息苦しい時代だと思う。
1936年(昭和11年)
天皇機関説論者として攻撃されていた法制局長官の金森徳次郎が辞任(1/10)。軍縮会議を脱退した(1/15)。日独防共協定を締結した(11/25)。政友会の内閣不信任案提出に対し、岡田首相は議会解散で応じた。第19回総選挙では、民政党205、政友会171、昭和会22、社会大衆党18、国民同盟15、中立その他35となった(2/20)。青年将校が決起、軍を動かし、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、高橋是清大蔵大臣は射殺、鈴木貫太郎侍従長は重傷、岡田首相、牧野伸顕は無事だった。多くの警護の警官、岡田首相と間違えられた義弟の松尾予備陸軍大佐が射殺された(2・2・6事件)。天皇のきびしい姿勢もあり、参謀本部と陸軍当局は武力鎮圧の方針を固め、29日には全員が投降した。特設軍法会議が開かれ、17名に死刑判決、執行、皇道派は失権した。岡田内閣の瓦解の後、後任首相として元老西園寺公望は近衛文麿を指名したが辞退、広田弘毅(前外相)が大命拝受した(3/5)。支那駐屯軍を2000か5000に増強を決定(5/15)。「第2次北支処理要綱」を決定(8/11)。抗日運動が高まり、成都事件(8/24)、
北海事件(9/3)で日本人が殺害。関東軍の支援で家蒙古軍が立ち上がったが、中国軍の反撃で百霊廟で壊滅(11/23)。掃共戦の継続を命令に西安に来た蒋介石を張学良が監禁し(12/12)、周恩来と三者会談して内戦を中止して抗日統一戦線を組む様に方針転換させた。陸海軍大臣現役制の復活(3/13)、不穏文書臨時取締法の公布(6/15)、陸軍工廠労働者の労働組合加入禁止89/10)、電力国家管理を決定(10/20)、軍事費中心(予算の43%)の国家予算の決定(11/27)。首、陸、海、外、蔵の5相会議で「国策の基準」を決定(8/7)対ソ対策、日満支三国の提携、対米対策、南方への進出等。機関説論者として攻撃された一木喜徳郎が枢密院議長を辞任、後任は平沼騏一郎になった(3/13)。斉藤隆夫(民政党)が粛軍演説をした(5/7)。
感想
皇道派の青年将校が軍を動かし、天皇の君側の奸を除くとして、岡田首相他要人を襲撃した。昭和史最大のテロ行為だったが、幸いに岡田首相は一命を取り留めた。天皇の強い意志で反乱軍は鎮圧されたが、これが契機で皇道派が勢力を失い、軍部統制派による中国侵略が進み、対する中国の抗日活動も活発化して世界大戦への道を進むことになった。その中にあって斎藤隆夫の粛軍演説は勇気ある行為であり特筆できる。