1937年(昭和12年)

第70回議会で浜田国松議員は軍部の横暴を批判、寺内寿一陸相との間で腹切り問答を行った(1/21)。その結果陸海大臣が議会解散を言い始め、広田内閣は総辞職した(1/23)。その後、宇垣一成に組閣の大命が下ったが、林銑十郎を推す陸軍が陸相候補を次々と辞退させて抵抗、遂に宇垣は大命を返上した(1/29)。代って林銑十郎大将に大命降下、組閣を完了(2/2)したが、政党からの入閣はなかった。林内閣は、国会の会期の最終日に議会を解散、続いて行われた第20回総選挙では、意に反して民政党179、政友会175を確保、林内閣は総辞職に追い込まれた(5/21)。次には、新人政治家の近衛文麿が組閣した(6/4)。盧溝橋で日本軍に中国軍からの発砲があった(7/7)。兵1名が行方不明の報告があり、牟田口連隊長は戦闘開始して可の命令を発した。9日には一旦中国側と協定して衝突回避に向ったが、関東軍、朝鮮軍は「華北出兵の準備完了」を東京に打電、出動命令を要求した。軍や参謀本部では不拡大派、拡大派が激論。7/11、遂に政府は満州と朝鮮から三個師団、内地から三個師団の派兵を決定、武力の示威により中国軍に謝罪させ日本の保障を得る為と説明された。盧溝橋地帯の中国軍(29軍)の指揮者・宗哲元に対し、蒋介石は7/17抵抗を宣言、中国共産党も抗日を叫んだ。7/28には中国軍との本格的戦闘状態に突入、上海上陸軍も戦闘を開始した(8/13)。上海上陸軍は中国軍の猛烈な反抗に会い、進撃を阻まれ、戦線は約3ヶ月膠着状態を続けたが、11月下旬に中国軍は退却を開始、それを追って猛スピードで進撃、南京を陥落させた(12/13)。その際に、南京での多くの虐殺があったとして問題を残した。内地では12/11から各地で南京陥落の祝賀行列が盛んだった。宮中に大本営が設けられた(11/18)。大本営政府連絡会議が設置され、内閣総理大臣も構成員の一人となったが陸海軍とも、軍事統帥事項について内閣の関与を許さずとの強い態度をとった。コミンテルンの反ファシズム人民戦線の指示に応じて活動したとの容疑で、加藤勘十、鈴木茂三郎、向坂逸郎など400余名が検挙された(12/15)人民戦線事件

感想

軍の統帥権の政府からの独立、軍部大臣の現役制を楯に軍部が独走し始めた。盧溝橋での日中軍の衝突をきっかけに日中は本格的な戦争に突入、南京事件など問題のある事件を起こした。軍の中には、満州国の統治を充実させ、関東軍を強化、対ソに備えるべきとする戦線不拡大派と拡大派と分かれたが、いずれにせよ中国の主権を侵し、外国である中国の舞台で勝手に行動している侵略行為だと思う。戦争の最終目標が何であるか不明確である。南京事件について色々な説があるが、上海での戦闘で日本軍は苦戦し、多くの死傷者が出て、指揮官、兵隊とも戦場での異常心理状態にあり、行き過ぎがあったであろうことは充分に想像できる。高度な武器が開発され、使用可能な現在、大量殺戮を伴う馬鹿げた戦争は絶対にやるべきではない。

1938年(昭和13年)

海、陸、外の三相が作成した「支那事変処理根本方針」が承認された(1/11)。前年の11月からドイツ駐華大使・トラウトマンによる日華和平仲介が行なわれていたが、蒋介石が南京を捨てて重慶に移ったので、「国民政府を相手にせず」との声明を出し和平交渉を打ち切った(1/16)。「国家総動員法」が成立公布された(4/1)。南京に中華民国維新政府が樹立された(3/28)。徐州占領(5/19)。武漢三鎮を占領(10/27)。近衛内閣改造が行われ、宇垣一成外相、池田成彬蔵相兼商工相、荒木貞夫文相、板垣征四郎陸相の陣容でスタート(5/26)。近衛首相が「東亜新秩序建設」構想の声明を発表した。国民党副総裁汪兆銘の「反蒋運動」に期待がかけられた(11/3)。ソ連国境でトラブル。張鼓峰事件(7/11)。沙草峰事件(8/11)。宇垣外相が対支中央機関の設置に反対して辞任した(9/30)。汪兆銘が重慶からハノイに移り、「対日和平案」を声明し(12/29)、近衛首相は「善隣友好、共同防共、経済提携」の三原則を声明し、汪兆銘政権を中央政権に育成する見通しをつないだ。

感想

支那事変は徐州占領、武漢三鎮の占領と拡大し、近衛首相の意思も不明確で、軍部の拡大策に引きずられていった。早期和平の動きもあったが、近衛首相の「蒋介石を相手にせず」との宣言で道は途絶えた。ソ連との国境紛争が続き、戦争が日常化する兆しが生じた。国家総動員法を公布、国の総資源を戦争目的に使う体制ができあがっいつた。この頃になると、私も小学校の2年生で、勿論難しいことは分からないが、朝鮮、満州の国境の新義州に住んでいて、南京、漢口陥落の祝賀提灯行列に参加したりしてわくわくした思いをしたものである。朝鮮から満州に移動する兵隊さんが我が家にも宿泊した。この軍の拡張政策を抑えられるのは、軍に睨みが利く軍のリ−ダーの存在が必要だが、その様なリーダーはいなかった。あえて言えば、天皇が大元帥として統帥権を発揮すれば或いは可能だったかも知れないが、天皇は側近を通じて抑制策の考えを述べたが、正式の御前会議では、憲法にのっとり各大臣の輔弼に従い決定的な発言は避けた様である。

1939年(昭和14年)

ドイツが日、独、伊三国同盟を提案してきた(1/6)。日本では同盟国のソ連以外の国に対する参戦是非について、陸軍と外務省が対立していたが、第三國に対しては状況如何とするとの妥協が成立(1/19)。白鳥敏夫駐伊大使、大島浩駐独大使が日本は同盟国がソ連以外の第三國に攻撃された場合参戦の義務を負うつもりと独走発言した(4/2、4/3)。陸軍は板垣陸相を突き上げ、三國同盟の早期無条件早期締結を要求した。汪兆銘を通じ、国民政府との和平提案をしたが、国民党中央委員会は汪の提案を一蹴、汪を党から除名した。支那事変への対応の行きずまりから近衛内閣が総辞職して平沼騏一郎が内閣を組織した(1/5)。日本軍が海南島へ敵前上陸した(2/10)。政友会が正統派の久原房之助派と革新派の中島知久平派に分裂した(4/30)。ノモンハン事件が起きた(5/12)。強力なソ連の機械化部隊の前に日本軍は惨敗、9月16日に停戦協定を結んだ。天津のイギリス租界で親日派の天津海関監督・程錫庚が殺された(4/9)。日本軍は犯人引渡要求したがイギリスは拒否(6/6)。これに対し、日本軍は天津イギリス租界を封鎖する挙に出た(6/14)。東京の日比谷で「英国排撃市民大会」が開かれ(7/12)、反英世論が高まった。ドイツがポーランド侵入から英、仏が参戦、第2次世界大戦が始まった。阿部信行内閣(8/30成立)は不介入を声明。国内経済は大戦歓迎気分で株価が急騰、物価も上昇したので政府は一般物価、賃金、地代、家賃を9月18日の水準に凍結した。8月23日、独ソ不可侵条約が締結されたので、目論見がはずされ平沼内閣は総辞職した。支那派遣軍総司令部が設置された(9/12)。上海で「日華国交調整会議」が開かれ、日本側が中国に関する独占支配構想を提示、汪派は反発するが、最終的にはこれを受け入れ汪兆銘主権のもとでの新政府樹立構想に合意した(12/30)。外務大臣に野村吉三郎海軍大臣が就任し(9/25)、アメリカ大使グルーと日米修好について協議を開始したが、3ヶ月後、日米通商条約の新締結、あるいは暫定協約を拒否すると通告してきた(12/22)。衆議院議員240名が阿部内閣不信任を決議し決議文を首相に手渡した(12/26)。朝鮮総督府が朝鮮人に日本式の氏名を名乗ることを命じた(12/26)。

感想

満州、中国での陸軍の中央からのコントロールを逸脱した行為がまかり通っているが、白鳥駐伊大使、大島駐独大使までも、中央の意向を無視した行動に出る様になった。内閣は次々と変わり、内閣としての強力な統治能力がなく(仕組みとしても)日本国は迷走し続けている。世界情勢の的確な把握、日本國力の正しい認識、国民の幸福を考えた政治が完全に欠如している。軍だけでなく、政治家も、官僚も、マスコミも、学者も、一般国民も軍国集団独裁主義に洗脳されており中国侵略それに伴う米英との衝突の回避が難しくなってきている。この動きに批判的な良識派もいたのであろうが、テロの恐怖、国家権力による逮捕の恐れの前にひっそりしているしかなかったのであろう。

1940年(昭和15年)

阿部信行内閣が総辞職した(1/14)。米内光政内閣が成立した(1/16)。斎藤隆夫・民政党が支那事変処理についての近衛声明の批判演説を行い(2/2)、これが反軍演説だとして懲罰委員会にかけられ(2/3)、衆議院は斎藤議員の除名を決議した(3/79.100人あまりの代議士が聖戦貫徹議員連盟を結成し、政党解散運動を開始した(3/25)。近衛が枢密院議長を辞任し新体制運動に乗り出すことを声明した(6/24)。陸軍が、ナチの電撃作戦の勝利に刺激されドイツ、イタリアとの提携強化を望み内閣打倒の動きを始め、畑陸相が辞任して米内内閣が崩壊した(7/16)組閣の大命を受けた近衛が外、陸、海の松岡洋右、東條英機、吉田善吾の三相候補と荻窪で会談、ドイツ、イタリア接近の外交、東南アジアの英、仏、蘭、ポルトガルの植民地処理、南進政策で合意した(7/19)。第2次近衛内閣が発足した(7/22)。ドイツ公使スターマーが来日、松岡外相、オットー大使、スターマーの三者で三国同盟について協議、御前会議で三国同盟の締結を決定(9/19)ベルリンで日独伊三国同盟を調印(9/27)。仏印と軍事細目協定が成立して、日本軍が北部仏印に進駐することになった(9/22)。近衛の「新体制運動声明」から新しい体制に向け、政党が続々と解散して大政翼賛会が成立した(10/12)。紀元二千六百年記念行事が全国で行われ、皇居外苑では五万五千人が参加した(11/10)。

感想

米英協調派の米内内閣が短期間で陸軍により倒され、陸軍と協調する第2次近衛内閣が成立、日独伊三国同盟の締結、北仏印への進出等、米英との大戦ににつながる政策を次々と決めて行った。議会での言論の自由も自らの手で抑圧し、政党は解散、大政翼賛会が成立した。主として陸軍による拡張政策に反対する勢力は抑圧され、目先の戦勝気分に押し流され、何も知らされていない国民もコントロールされた集団として動いている。この年は、私は新義州小学校3年生で、紀元二千六百年記念集会に参加したことを覚えている。