1941年(昭和16年)

日ソ中立条約がモスクワで調印された(4/13)。アメリカ国務長官ハルが駐米大使野村吉三郎に対し、政府間交渉を開始すると提議してきた(4/16)。ハル提案原則は「日華協定により日本軍の中国撤退」「中国は満州国を承認」「蒋汪合流」「非併合非賠償を条件にアメリカ大統領が中華関係の斡旋に立つ」だった。モスクワから帰国した松岡外相はこれを不満として、強硬修正案を提示した(5/11)。ハル長官は松岡外相非難の口上書を野村大使に手交した(6/22)。南部仏印に進駐を決定(6/22)、日本軍の進駐が開始された(7/28)。アメリカは南部仏印進駐に対し、在米日本資産を凍結(7/25)続いて対日石油輸出を全面停止してきた(8/1)。蘭印、イギリスも日本資産を凍結、各通商条約を破棄、ここにABCD包囲網が完成し、株式市場が暴落した(7/26)。御前会議が「帝国国策遂行要領」を採択した(9/6)。尾崎秀美、ゾルゲがスパイ容疑で逮捕された(10/15.10/18)。東條陸相が「帝国国策遂行要領」を実行できぬ内閣は責任を負うべしと近衛に総辞職を進言した(10/12)。近衛内閣が総辞職、東條内閣が成立した(10/14)。東條は現役陸軍中将として、首相、内相、陸相を兼任。天皇は「帝国国策遂行要領」を白紙還元するとの内意を東條に伝えた(10/16)。対米交渉の最終案が甲乙二案にまとまる。同時に、12月初旬を期して、陸海軍は作戦準備を整えるとする、「帝国国策遂行要領」第二次が御前会議で決まった(11/5)。日米交渉におけるアメリカ側の最終案が「ハル・ノート」として示された。「中国、仏印からの日本軍の撤退」「重慶政府以外の権力は全て否認」「日独伊三国同盟の空文化」といった内容。大本営政府連絡会議は「ハル・ノート」を最終通牒と判定した(11/27)。真珠湾攻撃、マレー半島に上陸で戦争が開始された(12/8)。

感想

独ソ不可侵条約に反応する形で、日ソ中立条約を結んだ(これは昭和20年ソ連により破られるのだが)。4月15日、アメリカから受諾可能な提案があったが、松岡外相がこれを不満として強硬な提案を返した。天皇の独白録によるとこれについて、松岡外相に対しかなり不満に思った由。後は、南部仏印の進駐から、ABCD包囲網による経済制裁を招き、天皇の抑制的な考えも通らず、軍部による対米英開戦へと動いた。この年、私は、朝鮮京城元町国民学校の4年生、12月8日の大本営の開戦発表をわくわくする思いで聞いた軍国少年だった。

1942年(昭和17年)

マニラ占領(1/2)。シンガポール占領。昭南島と改称(2/15)。ジャワ島を占領(3/9)。閣議が翼賛選挙を行うと決定(2/18)。これに基づき翼賛政治体制協議会が発足(2/23)、翼賛推薦候補者467名を発表84/6)、尾崎行雄が非推薦候補の応援演説で翼賛選挙を批判し、検挙、不敬罪で起訴された(4/24)。投票の結果は推薦候補381名、非推薦候補が85名当選した(4/30)。アメリカ空軍が東京,川崎、名古屋、四日市、神戸を初空襲。被害は少なかった(4/18)。大本営は山本連合艦隊司令長官に対し、ミッドウェー、アリューシァン西部の攻略命令を下した(5/5)。ミッドウエー海戦で日本海軍は空母4他を失う大敗北を喫した(6/5〜7)。ガダルカナル島に海軍設営隊が上陸、飛行場の建設を開始(6/16)、アメリカ軍もガダルカナルとツラギに上陸を開始(8/7)、日本陸軍がガ島奪回の為、一木隊を上陸させたが全滅(8/21)。更に川口支隊が上陸したが敗退(9/13)。ガダルカナルの奪回に又も失敗(10/25)、遂にガダルカナルを大損害を出した上放棄と決定(12/31)。ニューギニアのパサブァ守備の日本軍が玉砕した(約800人)(12/18)政府筋からの言論統制と言論界自らの内部自主規制が大東亜戦争の進行と共にますます進んだ。執筆者のブラックリストが提示された。アメリカで労働問題の研究をしていた川田壽夫妻が共産主義宣伝の疑いで検挙(9/1)、更に国際問題評論家の細川嘉六も検挙された(9/12)。関係者は総数49人検挙され、拷問を受けた。

感想

緒戦の勝利に国民も沸いたが、4/18のドウリットル指揮下のB25爆撃機がホーネット空母に搭載され日本近海に近接して日本各地を爆撃したことは、軍に衝撃を与えた。挑発されて、ミッドウエー攻略命令が下され、日本海軍は大敗した。ガダルカナル攻防戦でも敗退し、緒戦の勝利から日本軍の後退が目立ち始めた。大本営発表では輝かしい勝利の発表になっていたが、実態は敗戦への道を辿り始めており、国民には何も知らされなかった。

1943年(昭和18年)

中国広州湾のフランス租借地に日本軍が進駐(2/21)。東部ニューギニア要地確保の為ラバウルを出発した輸送船団が空襲され8隻が全滅(3/2.3/3)。海軍単独の「い」号作戦が行われたが、陣頭指揮の山本五十六長官は、ラバウル基地からブーゲンビルに飛び、着陸寸前にアメリカ機に襲われ墜落、戦死した(4/17)。アッツ島の守備隊2500人が全滅(5/29)。同じアリューシャン列島のキスカ島の守備隊5600人は無血撤退した(7/29)。ビルマにバー・モウ政権誕生、日本・ビルマ同盟が調印された(8/1)。フィリピン共和国が独立、大統領ラウレル。日本と同盟条約を結ぶ(10/14)。シンガポールでチャンドラ・ボースが自由インド政府を樹立、日本は承認した(10/21)。中国の汪兆銘政権との間で日華同盟が調印された(10/30)。学生、生徒の徴兵猶予特権が停止され、これに伴い77校から3万人の学生が学徒出陣、明治神宮競技場で壮行会が実施された(10/21)。兵役法が改正され、45歳まで徴兵されることになった(11/1)。重光葵外相がソ連に和平工作仲介を依頼したが、モロトフ外相に拒絶された(9/13)。イタリアの降伏に伴い、日独同盟の存続を改めて確認した(9/15)。関釜連絡線・崑崙丸がアメリカ潜水艦の攻撃で沈没、死者544名を出した(10/5)。執拗に東條主相を批判していた代議士中野正剛が(10/21)憲兵隊に逮捕され、26日に釈放されたが同夜自宅で割腹自殺した(10/26)。東京の議事堂で「大東亜会議」が開催された。参集者は汪兆銘(中国行政院長)、張景恵(満州国総理)、ラウレル(フィリピン共和国大統領)、バー・モウ(ビルマ首相)、ワン・ワイタコン殿下(タイ国ビブン首相の代理、チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首班・オブザーバー)(11/5〜6)。インドを除く5カ国は程度の差はあるが日本の軍政下に置かれていた。東條首相は担当部署として大東亜省を設置したが、東郷外相は外務省の管轄下に置くべきとして辞職した。マキン島タラワ島にアメリカ軍が上陸し、日本軍守備隊5400人が玉砕した(11/25)。対日戦後処理に関する内容を含む「カイロ宣言」「テヘラン宣言」に対し、東條首相が全面反撃を言明した(12/8)。

感想

昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗、同じく8月から12月にかけてのガダルカナル島の攻防戦での敗退、昭和18年4月の山本聨合艦隊司令長官の戦死、5月のアッツ島での玉砕、11月のマキン島、タラワ島での玉砕等、各戦線での敗退が続き、日本軍の敗色が濃厚になってきた。欧州戦線でも、同盟国のイタリヤは降伏、敗退が続いている。状況から見て、日本の敗戦は確実になってきたが、東條首相及び軍部は尚強気で、学生、生徒も動員し、抵抗を続ける姿勢だった。国民には何も知らされず、状況を把握出来たのは一部の戦争の指導者のみであったと思う。島に取り残された守備隊の救援もできず、降伏も許されず、この間多くの人命が無為に失われた。日本の元もとの意図ではないが、緒戦において東南アジア地区で勝利を収めた結果、植民地の宗主国勢力が一時的にせよ駆逐され、その結果植民地各国が日本の敗戦後、独立戦争やその他の形で独立するきっかけになったのは間違いない。それをもって、日本の戦争を正当化はできないと思うが、太平洋及び欧州での第2次世界大戦とその終戦の世界へ与えた影響については勉強してみたい。

1944年(昭和19年)

対中国補給路のインド側の基点になるインパールを占領するというインパール作戦案が東條首相により承認された(1/7)。3月8日作戦開始したが、進軍開始直後、英印連合軍の空挺部隊が牟田口隊の後方を遮断した。3月中旬31師団はインパール後方のコヒマを占領したが、食料と弾薬が底をつき、作戦失敗は明らかになった。しかし牟田口司令官は撤退を許さず、最終的に退却命令が出たのは7月8日だった。豪雨と病と飢え、敵軍の退路遮断作戦により悲惨な退却となった。クエゼリン島ルオット島の守備隊6800人が玉砕した(2/6)。パラオが襲われ、連合艦隊司令長官・古賀大将が脱出後行方不明(3/31)。サイパン島守備隊が玉砕、住民1万人も戦死した。守備隊長・南雲忠一中将(7/7)。マリアナ沖海戦で空母三隻、艦載機280を喪失(6/19.6/20)。岡田啓介が島田海相に辞職を勧告(6/16)、木戸内大臣が東條首相に参謀総長と軍令部総長の分離、海相の更迭、重臣の入閣を指示した(7/13)。東條は参謀総長を辞し、海相を辞職させ後任に米内光政を入閣させようとしたが米内は拒否、東條内閣は総辞職を決定した(7/18)。東條英機の暗殺計画があったが、辞任により未遂で済んだ。小磯国昭内閣が成立、陸相杉山元、海相米内光政、外相重光葵(7/22)。テニアン島守備隊8000人が玉砕(8/3)、グアム島守備隊1万8000人が玉砕(8/10)。重光外相を対ソ特使として派遣する案がモロトフ外相に拒否された(9/16)。フィリピン奪回を目指すアメリカ軍に対し、連合艦隊がレイテ湾に突入、戦艦武蔵ほか沈没、日本海軍は壊滅状態になった(10/24)。神風特攻隊が初出動(10/21)。中国からB29が来襲、北九州を爆撃(10/25)。マリアナ基地から東京を初空襲(11/24)その後続々と来襲。人間魚雷「回天」がウルシー環礁のアメリカ海軍基地を攻撃(11/20)。レイテ地上決戦を放棄と決定、以後、フィリピン残存部隊は「自活自戦」状態になった(12/19)。17歳以上の男子が兵役につくことになった(10/18)。ガソリン不足を補うため松根油開発が始まった(10/23)。汪兆銘が名古屋で病死(11/10)。

感想

インパール作戦の失敗、クエゼリン、ルオット、サイパン、テニアン、グアム島守備隊ば救援もないままに次々と玉砕。連合艦隊の壊滅。補給もないまま取り残されたフィリピンの残存部隊。追い込まれて神風特攻隊の出動、人間魚雷・回天の出動など救い様もない悲惨な戦争を続けていた。ソ連頼みの和平交渉も拒否された。山本五十六連合艦隊司令長官の戦死により後任になった古賀司令長官は、元々山本と同じく英米協調派であり、就任は不本意だったと思われるが、勝機はないと自覚していたと思われる。古賀長官は飛行艇で移動中の事故死と記録されているが、4月5日付けで元帥となり、海軍葬が行われているが、靖国神社に祭られていないとの記事があり意外に思った。A級戦犯の刑死者、病死者が祭られているのにどの様な基準になっているのであろうか?1人1人の命は大切なのに、徒に勝ち目のない戦争を続けているのを止められないのは何故と思う。