1945年(昭和20年)
アメリカの「タイム」誌が日本製風船爆弾の落下を報道した(1/1)。アメリカ軍がフィリピンに上陸した(1/9)。7万5000人の米軍が硫黄島に上陸した(2/19)。硫黄島の守備隊、栗林忠道中将以下2万3000人が玉砕した(3/27)。B29が150機東京に来襲、東京の約4割焼失、死者7万2000人に達した(3/9)。その後、東京北部(4/13)、山手方面(5/25)が被爆。大阪は(3/14)に被爆、焼失13万戸。小磯首相、重慶政府と和平交渉を試みる。南京政府の考試院副総裁で上海にいた繆斌を通じて折衝をしようとしたが、外務省及び陸軍が反対して中止された(3/21)。アメリカ軍が激しい艦砲射撃の後、沖縄本島に上陸した(4/1)。戦艦大和等が沖縄に向け特攻出撃したがアメリカ空軍に捕捉され大和ほか6隻が沈没した(4/7)。牛島中将、長勇中将が自決し沖縄戦は終った(6/23)。小磯内閣が総辞職、鈴木貫太郎が内閣を組織した(4/7)。ソ連外相モロトフがモスクワの佐藤大使に「日ソ中立条約の破棄を通告した(4/5)。軍部がまとめた「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が御前会議で決定された(6/6)。鈴木首相ポツダム宣言を無視すると声明(7/28)。広島に原子爆弾が投下され23〜27万人が死亡した(8/6)。長崎に原子爆弾が投下された(8/9)。ソ連が宣戦布告、北部満州、朝鮮、カラフトで一斉進撃を開始した(8/8)。御前会議はポツダム宣言を受諾すると決定した(8/10)。天皇が「戦争終結の詔書」を放送(8/15)。鈴木内閣が総辞職し東久邇宮内閣が成立した(8/17)。連合軍の第一陣が厚木飛行場に到着(8/27)、マッカーサー司令長官は30日に到着。東京湾上のミズーリ号上で降伏文書の調印がなされた。日本全権は重光葵、梅津美治郎(9/2)。GHQの指令第1号は軍需生産の全面停止(9/2)。GHQが東條英機ら39人の逮捕を命令。東條は自殺未遂(9/11)。GHQは「政治的、民事的、宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を政府に交付してきた(10/4)。東久邇ないかくはこの覚書に抗して総辞職、幣原内閣が成立した(10/9)。日本の外交活動が全面的に禁止された(10/31)。三井、安田、住友、三菱の四大財閥の自主的解体計画案が政府からGHQに報告され(11/4)、それを受けGHQは財閥解体の覚書を公表した(11/6)。近衛文麿、木戸幸一ら9人に逮捕命令が出された(12/6)。近衛は16日に服毒自殺。マニラの軍事裁判が山下奉文に死刑を宣告した(12/7)。GHQは政府に対し、農地改革の計画起草を指示してきた(12/8)。天皇がマッカーサーを訪問、モーニング姿の天皇と上着無しのマッカーサーとの会見写真を載せた新聞各紙に対し、情報局は不敬として発禁処分にした(9/29)。治安維持法などファシズム法規が次々と廃止された(10/13)。治安警察法が廃止(11/21)。婦人の参政権が認められた(12/17)。政治犯約3000人が釈放された(10/10)。日本社会党(11/2)、日本自由党(11/9)、日本進歩党(11/15)が誕生した。共産党第4回大会で、徳田球一が書記長に就任した(12/1〜3)。労働組合法が公布された(12/22)。
感想
アメリカ軍のヒリッピンへの上陸、硫黄島守備隊の玉砕(3/27)、B29による東京他各地への爆撃、沖縄本島での玉砕と敗戦続きで戦況は絶望的な状況になった。それでも、政府及び軍部は戦争継続の姿勢だったが、8/6の広島への原爆投下、8/9の長崎への原爆投下、ソ連の中立条約を破棄しての参戦で御前会議は、ポツダム宣言を受諾することを決めた。連合軍の進駐後、GHQによる戦後処理の施策が次々と出された。治安維持法等の廃止、政治犯の釈放、財閥解体、農地解放、労働法の制定、女性参政権の認可等、思想、学問、政治の民主化、経済や農業の民主化・自由化等、戦後の日本経済の発展の為に重要な施策が次々ととられた。恐らく、この様な急進的な改革はGHQの指導無しでは困難だったと思う。天皇を利用した国家主義の下に、戦争に費やされたエネルギーが一挙に解放され、戦後復興へのエネルギーに転換されて国民は敗戦により幸福になったと思う。どん底に落ち込んだ経済等から暫くは貧しい生活を我慢することになるが、将来への希望が見えてきたと思う。私は、この年の11月6日に朝鮮の京城から釜山、博多、新潟県青海町へと引き揚げ、和歌山県の海南中学に転校した。
1946年(昭和21年)
天皇が神格否定の詔書(人間天皇の宣言)を発表した(1/1)。GHQが軍国主義者の公職追放を指示。23年5月までに26万3660人が指定された。同時に、超国家主義の27団体に解散指令(1/4)。琉球列島、小笠原群島の行政権が奪われた(1/29)。金融緊急措置令が公布され、預金は全て封鎖され新円に切り換えが行われた(2/17)。政府の憲法改正案がマッカーサーの全面承認を得た(3/6)。幣原内閣の農相松村謙三は農政局長の 和田博雄と図り残酷な小作農の状態を改善するため完全自作農制のプランを作り、GHQからの指示もあり20年12月28日に農地関係調整法は議会を通過した。その後、GHQや対日理事会がこの案の不徹底を指摘し、修正が加えられ「自作農創設特別措置法」「改正農地調整法」が(10/21)に公布された。野党4党(自由、社会、協同、共産9の反対により幣原内閣は総辞職した(4/22)。第1党(自由党)の総裁、鳩山一郎が組閣準備中だったが、突如公職追放に指定されナンバー2の吉田茂が内閣を組織した(5/22)。新選挙法による第22回衆議院選挙が行われた。議席は自由党141、進歩党94、社会党93、協同党14、共産党5、諸派38、無所属81。婦人議員は39になった(4/10)。極東軍事裁判が開廷され、東條英機など28人が起訴された(5/3)。食糧メーデーが行われた。連合国極東委員会が憲法草案の諸原則を承認(7/2)、衆議院が憲法を修正可決した(8/24)。貴族院の特別委員会が修正の憲法を可決し衆議院に回付した(10/6)。枢密院で憲法が可決された(10/29)。政府はインフレ克服の為、傾斜生産方式を決めた(12/27)。日本国憲法が公布された。施行は来年の5/3(11/3)。樺太引揚船第1号が函館に到着(12/5)。皇族の臣籍降下が許されることになった(12/24)。
感想
天皇の人間宣言は当時を知らない人にはぴんとこないだろうが、従来の国民全般が抱いていた天皇感を変えるのに効果があり、歓迎された。GHQの後押しもあったが、土地の所有を開放して自作農化したのは、農村が豊かになりマーケットが拡大して、その後の日本経済の発展に貢献したと思う。同じく、新憲法も随所に新しい考えが取り入れられて画期的なものと思う。これも、GHQの後押しがなかったらここまで革新的な憲法にはなりえなかったろう。黒船来航により刺激され、明治維新をやり、産業の近代化を進めると同時に、次第に帝国主義国家への仲間入り、軍国主義国家へと歩を進め、遂に米英勢力と激突、破綻した。この間、多くの生命が失われた。国及び国民の財産も消滅した。しかし、日本人は残り、戦争に費やされたエネルギーを経済の復興に向け逞しく歩み出した年でもあったと思う。
1947年(昭和22年)
職員、公務員を中心に約400万人の労働者が賃金引上げを要求して一大ゼネストを打とうとしたがGHQにより中止させられた(2/1)。協同民主党と国民党が合同、国民協同党が結成された。衆議院勢力78人で第4党、書記長は三木武夫(3/8)。進歩党を母体に、自由、国民協同党の脱党者が参加して民主党が結成された。委員長は芦田均、衆議院で145名となり第1党(3/31)。最高裁判所が発足(8/4)。日本国憲法が施行(5/3)。刑法が改正され、不敬罪や姦通罪が廃止になった(10/26)。第23回衆議院選挙の結果、社会143、自由131、民主124、国協31(4/25)。社会、民主、国協連立の片山哲(社会)内閣が誕生した(6/1)。11宮家の皇族51人が皇籍から離れた(10/13)。
感想
労働運動が活発になり、吉田首相が念頭の挨拶で労働運動指導者を不逞の輩と呼び問題になった。共産党の勢力拡大を恐れたGHQは2・1ゼネストに中止命令を出した。政治の自由化を進めてきたGHQが、日本の左傾化を危惧する様になり、方針を転換し始めた。新憲法下で初めて、選挙で第一党になった社会党を首班とする片山内閣が成立した。都会はまだ飢えており買出し列車で農村に食料を求めた。
1948年(昭和23年)
社会党の左右対立がまとまらず、片山内閣が総辞職した(2/10)民主、社会、国民協同の連立の芦田均内閣が成立した(3/10)。文部省が朝鮮人学校の設立を承認せず、日本人学校への義務就学を指示した(1/24)。GHQは山口、兵庫、大阪、東京の朝鮮人学校に閉鎖命令を出した(3月)。これに対し反対デモが起り、文部省は朝鮮人学校を私立学校として認めることにした(5/5)。東宝争議が過激化して、警察、アメリカ軍まで出動する事態になった
(8/19)。結局は組合幹部20人の退職で争議は終った(10/19)。国務相・西尾末広が収賄容疑を指摘された(6/1)。昭電疑獄のあおりで芦田内閣は総辞職し第2次吉田内閣が成立した(10/7)。極東軍事裁判の判決がでた(11/12)。衆議院で吉田内閣不信任案が可決され、内閣は国会を解散した(12/23)。
感想
昭和23年は私が四高に入学した年である。当時の政治状況を、正しく認識してはいなかったが、状況は漠然と覚えている。家内の実家は佐原市で日本そば店を経営していたが、片山社会党内閣が、飲食店の経営を禁止する政策を採ったため、大変苦労したそうで、それ以来家内の祖父は社会党嫌いになった由である。四高のあった金沢での生活は、食料事情が悪く、食生活は貧しかった。当時は、GHQの支配下にあり、昭和電工事件はGHQの民政局派は片山、芦田内閣を支持していたが、それに対抗して保守派を育成しようとする派があり利用された様である。