1949年(昭和24年)
第24回衆議院総選挙が行われ、民主自由党が264議席を確保し第1党となる(1/23)。第2次吉田内閣が成立、外相は吉田首相が兼務、蔵相には池田勇人を起用(2/16)。ドッジ公使が収支均衡を基本とする予算編成を指示した(3/1)。閣議が「行政機関職員定員法案」を決定、26万7000人整理の構想を示した(5/4)5/30に成立。第一次シャウプ税制勧告発表(8/26)。「下山事件」(7/4)「三鷹事件」(7/15)「松川事件」(8/17)が起きる。「平事件」起る(6/30)。古橋と橋爪が全米水上選手権大会で1,2位を独占(8/16)。アメリカ国務省が日本との講和条約を検討中と発表(11/1)。湯川秀樹博士にノーベル物理学賞が贈られる(11/3)。
感想
ドッジによる緊縮財政の指示、公務員の大量の人員整理等GHQ主導の行政。反発する国鉄のストライキに対し違法勧告をした。下山事件、三鷹事件、松川事件等迷宮入りの事件が起きた。講和条約の締結について話題になった。私は、四高を1年で終了して、東大をすべり金沢大学に入学、憬真寮で大いに遊んでいた年で、ドッジ勧告、国鉄関連の事件は知っていたが、多くの関心はなかった。古橋、橋爪の活躍には胸を躍らされた。
1950年(昭和25年)
マッカーサーが年頭所感で「日本憲法は自己防衛の権利を否定していないと述べた(1/1)。民主自由党が民主連立派を吸収して自由党が発足、総裁は吉田茂(3/1)。民主党野党派、国民協同党、新政治協議会の合同により国民民主党が結成、衆議員67名、野党第一党、苫米地義三が最高委員長に就任(4/28)。池田蔵相が記者会見で失言「3月危機で中小企業の一部倒産は止むを得ない」、衆議院で池田蔵相不信任案が上程されたが否決(3/4)。訪米中の池田蔵相はドッジ公使と会見「アメリカが軍の駐留を言い出し難いのなら日本から申し出てもよい」との吉田首相の意向を伝えた(5/3)。吉田首相が両院議員総会で南原東大総長の全面講和論を非難し、曲学阿世の徒であると攻撃、南原はこれに反論世論が沸騰した(5/6)。公職追放指定者のうち、解除を訴えていた1万余人の解除が発表された(10/23)。重光葵(A級戦犯)の仮出所の発表(11/8)、続いて公職追放中の旧軍人3250人が追放解除(11/10)。これに先立ち共産党中央委員24名が公職追放の指定(6/6)。朝鮮戦争が始まる(6/25)。マッカーサーは赤旗に戦争について虚偽の記載があったとして発行停止にした(6/26)。レッドパージが始まる(7/24)。5月3日、憲法記念日にマッカーサーは、共産党の非合法化を示唆した。7月18日に赤旗を停刊させ、共産党幹部を地下潜行に追い込み、7月24日、新聞協会の代表に共産党員と同調者の追放を勧告、新聞、通信社は702名を解雇した(7/28)。映画界にもパージの指示があり、109名が解雇され、映画監督、俳優なども契約解除された。GHQが指示したのはジャーナリズム関係だが、便乗して電力、運輸、石炭、私鉄など民間企業も組合指導者を解雇、その数は1万人を越えた。9月1日には、閣議が公務員約1100人の追放を決めた。これに対し、全学連、労働組合の反対運動もあったが、各個撃破された。マッカーサーが警察予備隊の設置と海上保安庁の拡充を指示してきた(7/8)。マッカーサーが国連軍最高司令官に就任した(7/8)。公務員の政治活動が禁止された(12/23)。
感想
私が東大に入学した年である。新宿には、道路脇にテント店が並んでいた。街は戦災からの復興過程にあった。渋谷の町には、米兵と手をつないで歩く女性の姿が多く見られた。この年の最大の事件は朝鮮戦争の勃発であろう。アメリカの占領政策の転換の年でもあり、公職追放が解除され、対してジャーナリズムをはじめ、各方面でレッドパージが行われ、日本共産党幹部がが地下に潜行する羽目になった。警察予備隊の創設を通じ、日本の再軍備が始まった。マッカーサーの指示のもと、日本の自主性はなく、うまく立ち回るしかない状況だと思う。
1951年(昭和26年)
マッカーサーが年頭所感で「