1925年(大正14年)
1/20、北京で日ソ基本条約が調印された。2/13、政府と枢密院との間で普通選挙法案についての妥協が成立し、政府原案が確定した。3/2、衆議院で普通選挙法案が可決されたが、貴族院は3/26、選挙人資格を著しく制限するよう修正可決、3/29、両院協議会で妥協案が成立した。普通選挙法と抱き合わせの治安維持法は3/7、衆議院で、3/19、貴族院で可決された。
7/12、愛宕山の新局からラジオ放送が開始された。4/4、高橋政友会総裁が引退を声明し、4/13の大会で、田中義一が総裁に就任した。5/14、政友会の臨時大会は革新倶楽部と中正倶楽部との合併を決めた。5/30、合同に反対だった尾崎行雄らは中正倶楽部の残留派と共に新正倶楽部を組織した。
4/30、総同盟の左派30組合が日本労働総同盟革新同盟を結成した。5/24、総同盟革新同盟は、総同盟から分離して日本労働組合評議会を結成した。
7/30の閣議は、税制整理案をめぐり紛糾し、政友会の小川法相、岡崎農商が退席した。7/31、第1次加藤高明内閣は、閣内不統一で総辞職した。政友会は大命降下を期待したが、元老西園寺公望は加藤高明を推薦した。8/2、加藤は憲政会単独の第2次内閣を組織した。10/26、北京で関税会議が開かれ、日本は原則的に中国の関税自主権を承認する用意があると言明して、英米を驚かせた。11/22、張作霖の部下の郭松齢が張に叛旗をひるがえすと、12/8、日本は内政干渉に踏みきり郭軍を壊滅させた。
感想
選挙権の制限付きながら、漸く普通選挙法案が成立した。同時に、治安維持法も制定された。政友党総裁に、陸軍出身の田中義一が就き、政治の軍支配のきっかけになった。政治の目標が見えない。
1926年(大正15年、昭和元年)
1/15、京都帝大の学生検束から始まり、4ケ月にわたり、全国の社会科学連合会の学生が検挙され、治安維持法、出版維持法,不敬罪で起訴された。5月に岡田文相は全国の高校、高専の校長らに通達して、学生、生徒の社会科学研究を禁止させた。6/5、文相の通達に抗議して、東京帝大などに学生自由擁護連盟が結成され、6/28、全日本学生自由擁護連盟に発展した。
1/28、加藤首相の死去により、1/30、第2次加藤内閣の全閣僚が留任して、第1次若槻内閣が発足した。3/4、衆議院で田中義一政友会総裁の政界入り資金はが軍の機密費を横領したものだと憲政会の中野正剛が追求した。
3/5、労働農民党が結成された。12/5、労農党から脱退した総同盟など右派は、社会民衆党を結成した。3/25、大審院は関東大震災直後に大逆罪で逮捕した朴烈と金子文子に死刑を宣告したが、4/5に無期懲役に減刑した。4/26、浜松の日本楽器で職工の待遇改善を要求する105日に及ぶ争議が起きた。7/18、長野市で開かれた警察署統合反対県民大会が暴動化し862人が検挙された。12/25、天皇(48才)がが没し、摂政裕仁親王が践祚、昭和と改元した。
感想
高校、高専、大学の社会科学研究が弾圧され学問の自由がなかった。無産政党も、弾圧があるために一本化できず、四分五裂になった。朴烈事件、各地の争議、暴動など暗い嫌な時代である。政治の目標が見えない。
1927年(昭和2年)
2/7、大正天皇の大葬が行われた。3/15、東京の渡辺銀行と「あかじ貯蓄銀行」の突然の休業から、銀行のとりつけ騒ぎが拡大、金融界はパニック状態となり、若槻内閣は総辞職に追い込まれた。
4/20、政友会の田中義一が内閣を組織、金融恐慌からの回復が第1課題であり、財政膨張策による景気刺激策が期待された。田中内閣は3週間の金銭債務支払い猶予を実施し、一方、日銀は合計21億9000万円の非常貸出を行い、3/15以来のとりつけ騒ぎをようやく鎮めた。
6/1、憲政会と政友本党は歩み寄り、立憲民政党がうまれた。総裁は浜口雄幸、副総裁は若槻礼次郎。5/30、大正14年12月に起った京都学連事件で初めて治安維持法が適用され有罪の判決が出た。5/28~8/30、蒋介石の率いる中国国民政府軍の北上を阻止する為、南満州から華北に進出した張作霖を支持するため、田中首相は関東軍に山東省出兵を命じた。名古屋地方で行われていた陸軍大演習の天皇観兵式で、二等兵北原泰作(全国水平社社員)は、軍隊内における身分差別の実情について直訴、軍法会議で懲役1年を科せられた(11/19)。11/3、初の明治節が実施され、明治神宮には80万人の参拝者が集まった。
感想
銀行のとりつけ騒ぎが起き、金融界はパニック状態になり、若槻内閣が総辞職した。後継の田中義一内閣は、中国の内紛に干渉して、山東省に出兵した。京都学連事件で、初めて治安維持法が適用されるなど思想、言論、学問の自由を弾圧するますます暗い時代に入っていく。この年7月に芥川龍之介が服毒自殺して、「将来に対するボンヤりとした不安」という遺書を残しているがわかる気がする。
1928年(昭和3年)
1/24、東大の新人会と七生社の対立から、新人会に解散命令がでて、河上肇(京大)、大森義太郎(東大)、石浜知行(九大)教授が学園から追放された。4/20、蒋介石が北伐を再会したのを契機に田中内閣は第2次山東出兵した。5/3、済南に入城した中国国民政府軍と日本軍が戦闘を開始、双方に死傷者が出た。5/11、日本軍は済南城を占拠した。田中内閣の説得により、北軍の張作霖は北平を発して奉天に引揚げを始めるが、6/4未明、乗用列車が爆破され、張は爆死した。(関東軍参謀の河本大佐による事件)。田中首相は陸軍の反抗に屈し、「満州某重大事件」として処理した。第16回総選挙が最初の普通選挙として実施された。内務大臣鈴木喜三郎は、「民政党の唱える議会中心主義は国体と相容れず」と露骨に選挙に干渉し、無産政党候補への弾圧は強かった。しかし、結果は、定員466名中、政友会217、民政党216、及び厳しい弾圧にも拘わらず、無産政党から8名が当選した(2/20)。3/15、共産党員を中心に左翼運動家1600人以上が一斉に逮捕され、起訴され多くが有罪判決をうけた。第55議会に提出されていた治安維持法改正案は、野党の反対で審議未了になっていたが、政府は緊急勅令として公布した(6/29)。7/1、3・15事件と治安維持法の改正を踏まえ、内務省警保局保安課を強化すると共に各府県の警察部に特別高等課を設置することが勅令として公布された。同じく、3日、軍の憲兵隊に思想係が設置された。
感想
帝大の進歩派教授の追放、3/15の共産党など左翼運動家の大量検挙、拷問、治安維持法の改正と特高警察の設置、言論、学問、思想、政治活動、結社の自由などなく、批判勢力は抹殺されファッシズムの道から、戦争による破局への道を進みつつある。関東軍は独善的な考えにより、張作霖を爆殺し、事件の責任をうやむやにした。この国は、何を目指しているのか核心の部分がない。何か起きると、天皇を都合よく持ち出し、国体護持を錦の御旗にして思考停止に落とし込む。天皇は西園寺公望らの影響でリベラルな思想を持っておられた由だが、張作霖の爆殺に関し、田中首相に不信感を持たれ結果として田中首相が辞任した。この時代の歴史を見ると、嫌な時代だったと言いようのない嫌悪感を覚える。
(参考)張作霖爆殺事件