1921年(大正10年)
1/9、ウラジオで日本軍哨兵がアメリカの大尉ラングトンを誤射、死亡させる事件がおきたが、2/21、日米間で解決をみた。1/24、貴族院で憲政会総裁の加藤高明がシベリアから撤兵せよと主張した。1/31の予算委員会で満鉄関係の取引に疑惑があり、政友会の選挙資金に流れたのではないかと追求された。また、関東州のアヘン取引も問題になつた。2/10、宮内庁は皇太子妃内定には変更がないと発表した。この件では、元老山縣の暗躍があり、右翼の頭山満、内田良平の反山縣の動きもあり、混迷していた。宮中某重大事件といわれる。この事件で、山縣の力が失墜した。皇太子裕仁は宮廷内や右翼団体の反対を押し切り、3/3、ヨーロッパに向け出発、各国を視察して9/3に帰国した。11/25、天皇の病状が悪化したので皇太子裕仁が摂政となった。7/11、ワシントン軍縮会議の全権に加藤友三郎、徳川家達、幣原喜重郎が任命された。加藤友三郎の出張中、海軍大臣の臨時事務管理を原首相がつとめることが10月に決まったが、これは文官による軍部大臣の最初で陸軍は反対した。12/13、太平洋方面の島嶼たる領地の相互尊重を約する日、英、米、仏の4カ国条約が結ばれ、これが批准されると同時に日英条約は失効することになった。10/1、大日本労働総同盟友愛会の創立10周年記念大会が開かれ、日本労働総同盟と改称された。9/28、安田財閥の創始者安田善次郎が大磯の別邸で刺殺された。11/4、原首相が、東京駅頭で刺殺された。現職の総理大臣が暗殺されたのはこれが最初であった。11/12、西園寺公望は元老の意向だとして高橋是清を後継首相に推薦、翌13日高橋に組閣命令が出て、全閣僚留任の高橋内閣が成立した。11/14、政友会協議員会で高橋を総裁に推戴、12/21の大会はこれを承認した。
感想
大正7年から、シベリアに出兵しているが、ロシア革命についての内政干渉ではないのか。日本軍の人的被害も増え、その意義がどこにあるのか?原首相が加藤海軍大臣の不在の為、臨時に事務管理をつとめたが、文官による軍部大臣事務として陸軍が反対するなど、今では考えられないようなことが起きている。陸海軍は天皇に直属し、総理大臣ですら管理できない、軍部独走をコントロール出来ない体制ができている。衆議院の多数党の総裁から首相になった原総理大臣が東京駅頭で刺殺されるという暗い事件がおきた。
1922年(大正11年)
2/6、ワシントン軍縮会議は、海軍軍備制限条約、中国に関する九カ国条約、中国関税条約を調印して終了した。この軍縮条約で英、米、日の主力艦保有比率は、5・5・3となった。2/23、衆議院に憲政会、国民党、無所属共同提出の統一普選法が上程されたが、2/27、衆議院はこれを否決した。6/6、高橋内閣は閣内不統一のため総辞職した。政友会は中橋、元田両大臣を含む6人を除名した。6/9、元老は後継首相として海相加藤友三郎を推薦、6/12加藤内閣が成立した。7/15頃、社会主義者が集まり、非合法下に日本共産党を結成した。中央委員長は堺利彦だった。10/25、シベリアの日本軍は北樺太を除き撤退を完了した。12/17、青島守備軍の撤退を完了した。11/18、犬養毅、尾崎行雄、島田三郎らは革新倶楽部を結成した。
感想
この年、1/16、大隈重信、2/1、元老山縣有朋が亡くなり、大隈は国民葬、山縣は国葬が行われたが、大隈の葬儀には多数の会葬者がいたが、山縣の葬儀は淋しいものだった。陸軍を率い、国政を左右し、政党政治を嫌った山縣は国民に不人気だった様である。この時代の政治を見ると、総理大臣の任命権は元老にあり、陸海軍が我儘を言い、国民不在で政治が何を目指しているのか不明である。
1923年(大正12年)
普選即行全国記者同盟大会が、1/20、東京で、関西記者大会が、2/16、大阪で開催された。2/11、労働組合の3悪法、過激社会運動取締法、労働組合法、小作争議調停法反対デモが各地でくりひろげれれた。3/1、衆議院は普通選挙法案を否決した。ソ連の極東代表ヨッフェが、後藤新平東京市長の招きで来日し、2/1、日ソ復交について後藤と私的に会談した。6/28、川上俊彦とヨッフェ間で予備交渉が行われ、7/21に終結した。3/26、衆議院で被差別部落民につき因襲打破の決議案が可決された。5月、早稲田大学で軍事研究団をめぐり衝突があり、これが飛び火して、6/5、堺利彦ら共産党員が検挙された。8/24、加藤友三郎首相が病没し、8/28、山本権兵衛に組閣命令が出て、組閣工作中に関東大震災が起きたので、旧閣僚が応急措置をとらねばならなかった。9/2、第2次山本内閣が発足した。9/1、午前11時58分、関東地方に大激震が起り、火災、津波が加わり死者9万1000余、全壊焼失家屋46万という大惨事になった。9/2、東京市ほかに戒厳令が発令された。9/2、朝鮮人暴動の流言がひろがり、朝鮮人の迫害が始まり、殺害された朝鮮人は数千人に及んだ。9/4、南葛労働会の河合義虎ら10人が亀戸署で軍隊に殺害された。9/16、大杉栄、伊藤野枝らが甘粕憲兵大尉により殺害された。帝都復興に関する詔書が出た。9/19、帝都復興審議会官制が、9/27帝都復興院官制が公布された。山本内閣は、10/22の閣議で普選案要綱を承認した。これを受けて、法制審議会は普選問題を審議し、婦人参政権は否決したが納税資格は無条件撤廃は決定された。12/27、議会の開院式に出席のため虎の門跡を通過中の摂政の自動車めがけて難波大助が発砲する事件が起きた。12/29、責任をとり、山本内閣は総辞職した。
感想
9/1、関東大震災が起き、多大の生命、財産が失われた。、朝鮮人暴動の流言がひろがり、自警団、憲兵隊により多数の朝鮮人が殺されるという痛ましい事件が起きた。どさくさに紛れ、アナーキストの大杉栄、伊藤野枝らが甘粕憲兵大尉により殺害された。朴烈、山本文子が拘束され、後に爆発物取締罰則違反で起訴され、大逆罪にあたるとして死刑判決、後に恩赦で無期懲役に減刑されたが、金子文子は刑務所内で縊死した。詳細を調べていて、心の痛む暗い事件である。朴烈事件。
1924年(大正13年)
1/1、枢密院議長清浦奎吾に組閣命令が出た。1/7、衆議院のどの政党にもよらない清浦内閣が、貴族院研究会の援助で成立した。これに対し、政友会、憲政会、革新倶楽部の三派有志が集まり、清浦内閣打倒運動を開始した。しかし、1/16、政友会は山本達雄、床次竹二郎らが脱党して、1/29、政友本党を結成、清浦内閣支持を打ち出した。1/30、大阪中央公会堂で、憲政擁護関西大会が開催され、政友、憲政、革新倶楽部3党首が出席、帰路の列車を愛知県一宮駅附近で転覆させようとした事件が起った。1/31、衆議院でこの事件について、政府の責任を追及中、議場に壮漢が乱入、すかさず清浦内閣は議会を解散した。2/10、総同盟は第13回大会で現実主義への方向転換を宣言した。4/27、安部磯雄、山崎今朝弥、石田三四郎らが日本フェビァン協会を設立し、「社会主義研究」を出し始めた。4月には、大川周明、安岡正篤、満川亀太郎らが行地会を結成、維新日本の建設などの綱領を掲げた。また、5月には、平沼騏一郎らの国本社が結成された。5/10の総選挙で、憲政会151名、政友本党109名、政友会105名、革新倶楽部30名で護憲三派合計で284名と絶対多数を占めた。6/7、清浦内閣は総辞職し、6/9、憲政会の加藤高明総裁に組閣命令が出た。6/11、加藤は政友会、革新倶楽部の協力を求め、組閣した。7/18、衆議院は貴族院制度改正に関する建議案を可決した。9/4、政府と与党三派の普選連合協議会が普選案大綱を決定した。11/24、孫文が来日して、28日、神戸商工会議所など主催の会で大アジア主義を演説した。
感想
政党によらない清浦内閣を倒し、衆議院の多数派政党による、第2次護憲内閣が成立した。普通選挙実施の気運ができ、貴族院改革の検討も開始された。曲がりなりにも、選挙により多数を占めた政党の構成する内閣による政治が行われるようになったことは注目できる。問題は、このやり方が継続できるかどうかである。