1917年(大正6年)

1/9、寺内内閣は、中国の一党派を支援せず、特殊権益を拡大し、日本の優越的地位を列強に承認させるとの方針を閣議決定した。1/20、日本興行銀行、朝鮮銀行、台湾銀行は中国の交通銀行へ借款500万円を供与した。2/13、イギリスは講和会議で、日本が山東省のドイツ権益を継承することを支持すると回答してきた。次いで、フランス、ロシアも同じ回答をしてきた。1/14、横須賀に停泊中の軍艦筑波が火薬庫爆発で沈没、死者73人。3/19、松島炭坑で火災、死者50人。5/22、米沢市で大火、消失家屋2300戸。9/30、東京を中心に東日本に大暴風雨、死者行方不明者1300人。12/24、福岡県桐野炭坑でガス爆発、死者361人、翌2/15にも再爆発、死者71人。1/21、国民党憲政会は大会を開き、寺内内閣反対を決議。1/25、衆議院は憲政会、国民党共同提案の内閣不信任案を上程、国民党の犬養毅が提案演説に立ち、混乱のうちに衆議院は解散した。4/20の総選挙では、政友会が165、憲政会が121、国民党が35で政友会が第1党を回復した。3/10日本工業倶楽部が設立された。9/12、大蔵省は、金貨幣、金地金輸出取締令を公布した。室蘭日本製鋼所の職工が賃上げを要求、3000人がストライキに入ったが指導者が検挙され敗北した。4/6、友愛会創立5周年大会を開催し、婦人を正会員とすることを決定した。6/18、長崎三菱造船所の職工1万人が賃上げストライキに入り、労働者側が勝利した。5/1、堺利彦山川均らの主唱で社会主義者34人がメーデー記念の集まりを開き、ロシア革命支持を決議した。12/6、堺利彦、加藤晴太郎らが普通選挙請願の演説会を開催したが弾圧され中止した。6/2、寺内首相は、原敬加藤高明犬養毅の3党首に臨時外交調査委員就任を懇請して、原と犬養は受諾した。7/20、中国の段祺瑞内閣を財政支援し、南方派は支援せずと閣議決定した。アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、日本は英、仏、露に認めさせていた中国の特殊権益をアメリカにも認めさせようとして、6/13、石井菊次郎前外相を特命全権大使に任命、アメリカに派遣し交渉したが、11/2に交換した石井・ランシング協定は曖昧な表現となった。

感想

第一次世界大戦に参戦、獲得した中国のドイツ権益を継承することを列強に認めさせることが大きな外交課題であり、英、仏、露はこれを認めたが、遅れて参戦したアメリカは、中国の領土保全、門戸開放、機会均等を求め、曖昧な態度だった。後の、日米対立の遠因になったと思う。事故、火災、天災による死者が多く、騒然とした年。労働争議も、弾圧されたり、一部目的を達したりした。寺内内閣と、各政党とのかけひき、対立。

1918年(大正7年)

1/12、政府は居留民保護を名目にウラジオストックに軍艦2隻を派遣した。2/5本野一郎外相はアメリカ大使に東部シベリア鉄道の管理を提議したが、アメリカは不同意と回答してきた。3/25、日華陸軍共同防敵の覚書を交換、5/16に調印した。これは、シベリア方面への日本軍の派遣、中国の協力義務を規定したものであった。4/5、陸戦隊がウラジオストックに上陸を開始した。6/21、イギリスが日本のシベリア出兵を要請してきた。7/8、アメリカがチェコ軍救出のため日米共同の出兵を提起してきた。8/2、政府はシベリア出兵を宣言し、まず日本軍1万2千が派遣された。2/9、衆議院予算委員会で官営八幡製鉄所の鋼片払下問題が追求され、2/18、同所長官の押川則吉が自殺した。7月に、鈴木三重吉主宰の「赤い鳥」が創刊された。また、武者小路実篤らが「新しき村」を創刊した。7/18、農商務省は、大阪堂島の米穀立会所に、米価暴騰のため定期取引無期停止命令を発した。7/31、米価大暴騰のため市場混乱、東京米穀取引所立会停止、8/1、名古屋米穀立会所も立会停止となった。8/3、富山県中新川郡西水橋町で米騒動が起り、たちまち全国に波及した。山口県宇部炭坑では軍隊が出動して死者が出る騒ぎとなった。8/17、憲政会は米騒動について、政府の対処を要求、近畿関西新聞記者大会は内閣弾劾を決議した。8/25、第2回関西記者大会が開かれ、その大会記事をのせた8/26の朝日新聞夕刊に「白虹日を貫けり」とあったのが国体を傷つけるものとして発禁処分となった。9/9、幹部が新聞紙法違反で起訴され、9/28、村山竜平社主が右翼に中之島で襲われた。10/14、村山社長は辞任、10/15、鳥居素川編集局長が退社、長谷川如是閑大山郁夫らも行動をともにし、朝日の論調は一変した。9/2、寺内内閣弾劾全国記者大会が東京で開催され、寺内を糾弾する声は野に満ちた。9/21、寺内首相は辞表提出、同日、西園寺公望に組閣命令が出たが辞退、9/27、改めて政友会総裁原敬に組閣命令が出された。9/29、原内閣が発足した。陸、海、外務以外の閣僚は全員、政友会員だった。大川周明満川亀太郎らによる急進的国家主義団体老壮会が結成され、10/9、第1回会合が開かれた。また、12月には赤松克麿、宮崎竜介らによって新人会が結成された。12/23、吉野作造、福田徳三、今井嘉幸らの呼びかけで黎明会が結成された。12/5、梨本宮方子女王と李王世子垠との結婚に勅許が出た。

感想

ロシアの混乱に乗じ、シベリアへの出兵が開始された。米騒動が富山県から全国に波及し、弾圧のため死者も出る騒ぎになった。軍閥官僚、藩閥の寺内内閣への憤激は野に満ち、民衆の抵抗を好意的に取り上げた新聞は片端から発禁処分となった。大正デモクラシーの旗手だった大阪朝日新聞も弾圧され、村山社長を右翼が襲うなどもあり、社長、編集局長が退社、論調を一変することになった。弾圧の手段として、国体の尊厳を傷つけるとの理由が使われた。

1919年(大正8年)

第1次世界大戦の講和会議が、パリで1/18から開かれ、日本の主席全権は西園寺公望で、牧野伸顕がつきそっていた。日本の要求は中国山東半島のドイツ利権、旧ドイツ領の南洋諸島を無条件で譲りうけることだった。中国代表は、山東半島を中国に返すよう要求、交渉は難行した。4/21、政府は山東問題に関する要求が通らないときは、国際連盟規約の調印を見合わせるよう訓令した。日本の脱退を恐れたウイルソンは軟化し、4/30の首相会議は日本の要求を承認した。しかし講和会議の正式決定にはなかなかならなかったが、南洋諸島の方は5/7、日本を委任統治国にすると決定された。
河野広中らは2/9、東京で普選期成大会を開催した。次いで憲法発布30周年記念日の2/11には、学生3000が日比谷公園に集まり、普選を要求して二重橋までデモ行進をした。大阪でも、2/15、友愛会の大阪連合会が憲法発布記念の街頭演説会を開き、京都連合会も尾崎行雄を迎え普選期成労働者大会を開いた。第41通常議会には、政府、憲政会、国民党からそれぞれ選挙法拡張法案が提出されたが、小選挙区と抱き合わせで、選挙資格を直接国税10円から5円に引き下げるという政府案が3/8に可決、3/23に公布された。4/21、堺利彦山川均らが「社会主義研究」を創刊。更に、マルクス主義を旗印にする「新社会」を5/1に発刊した。3/1、京城、平壌など朝鮮各地で独立宣言やデモが行われ全国に波及した。4/8、陸軍省は朝鮮の騒擾を鎮圧するため6個大隊と憲兵400を増派すると発表した。4/10、上海で朝鮮の民族主義者が大韓民国臨時政府を樹立した。8/20、朝鮮総督府官制が改正され、文官総督が認められるようになった。9/2、斉藤実朝鮮総督が京城の南大門駅で爆弾を投げられたが無事だった。11/27、朝鮮独立運動の指導者呂運亨が東京で朝鮮独立の抱負を記者団に語り問題になった。北京の学生3000人余が、5/4、山東半島問題に抗議し、デモを行い、5・4運動と呼ばれるようになった。5/7、東京で中国人留学生2000人が国恥記念デモをした。7/19、中国東北の寛城子で日華両軍が衝突し、日本軍の多数が死傷した。9/9の閣議は、中国北京政府への財政援助を決めた。大川周明北一輝満川亀太郎らは8/1、国家主義団体猶存社を結成した。友愛社は、8/30、創立7周年大会を開き、大日本労働総同盟友愛社と改称、改組した。9/15、国際労働会議労働側代表員選定協議会が開催されたが、友愛会、信友会代表は協議会を否認して退場した。9/20、労働代表官選反対全国労働者大会が開催された。12/4、政府代表鎌田栄吉、使用者代表武藤山治、労働代表枡本卯平と決定されたが、枡本代表反対運動が続いた。

感想

第1次大戦に参戦して、勝利した日本は、中国の山東半島のドイツ利権の引継ぎを要求、中国と摩擦の種となった。中国で5/4、抗議の学生デモが起きた。1915年の対華21カ条要求等も含め、中国への武力による帝国主義的進出に反発が強まり、欧米からも警戒されるようになった。さらに、朝鮮でも日本の支配、植民地化に対し独立運動が激しくなつてきた。ロシア革命の影響もあり、社会主義運動も活発になった。普通選挙の実施についての要求も活発化した。一方、猶存社など、国家社会主義団体が結成され、独自の思想の元に活動を開始している。原敬内閣が続いているが、国の方向性が明確ではなく、迷走している感じである。

1920年(大正9年)

東京帝大助教授森戸辰男が、1/10、経済学研究・創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を掲載したため休職となった。1/14、発行人大内兵衛助教授とともに新聞紙法違反で起訴され、3/3、東京地裁は森戸に禁錮2ヶ月を課した。2/5、官営八幡製鉄所の職工は日本労友会の指導で待遇改善のストライキに入った。労友会の幹部が検挙され、ストはいったん中止されたが、2/24、態勢を立て直し再びストを決行。検束者は400名に及んだ。争議は敗北したが、4/1、待遇改善の要求の一部は実現した。2/11、東京で数万人の民衆が普通選挙を要求して大会とデモ行進を行った。折から開会中の第42通常議会には、国民党、憲政会、普選実行会がそれぞれ普選法案を提出していた。原首相は単に否決するより、解散した方が運動を抑えるのに有効だと判断し、普選案が本会議に上呈された2/26に衆議院を解散した。3/15、株式市場は株価暴落で混乱し、東京、大阪の株式取引所は休業した。4/13にもまた暴落、戦後恐慌は決定的となり、銀行も取付や休業、合併があいついだ。ニコラエフスク港(尼港)の日本軍は、3/12の未明、休戦中のパルチザンと戦闘状態に入ったが完全に敗北、生き残った将兵と居留民は投獄された。5月に入り、日本の救援隊が出向くと、パルチザンは日本人122名を殺し、撤退した(尼港事件)。7/15、シベリア派遣軍は極東共和国と停戦議定書に調印した。5/2、上野公園で日本最初のメーデーが行われ、参加者は一万人に達した。5/16、メーデー参加組合の友愛会、信友会、啓明会などが集まり労働組合同盟会を結成した。また、11/20には関西労働組合連合会ができた。5/10に行われた第14回総選挙では、政友会が278名と単独で過半数をはるかに上廻る圧倒的な勝利を収めた。7/1からの衆議院本会議で永井柳太郎は原総理の独裁を非難する演説をした。7/10の衆議院は、憲政会、国民党提出の内閣不信任案を否決、12日には普選法を否決した。この第43回特別議会で海軍の
88艦隊建設計画が議会を通過した。軍事費は歳出総額の49%に達した。11/4、島田三郎尾崎行雄犬養毅らは政界革新普選同盟会を結成した。大杉栄は、12/9、堺利彦、山崎今朝弥らと日本社会主義同盟の結成宣言をした。

感想

労働運動の盛り上がりと弾圧、社会主義思想の抑圧と抵抗、普選の実施を求める運動と政府による抑圧、小選挙区による選挙により、体制側の政友会の大勝利。シベリア出兵の失敗による、日本人の殺傷事件の発生。戦後恐慌の発生による混乱。88艦隊建設の推進による軍事費の増大。国の進むべき方向が見えず、漂流している感じである。経済の支配層と結びついた支配体制の維持、国威発揚の為の軍備の拡大を志向し、一般民衆の生活に目を向けることなく、労働運動などを弾圧している。