1913年(大正2年)

全国記者大会が1/17東京築地の精養軒で開催され、400人が参集して、憲政擁護、閥族掃蕩を宣言した。1/19、国民党大会が非官僚派代議士の提出した閥族打破、憲政擁護の決議案を採択した。1/24、第2回憲政擁護大会が、東京の新富座で開かれたが大変な盛況だった。2/1、大阪憲政擁護大会では、中之島公園に3万人の聴衆がつめかけた。2/5、数万の民衆が国会議事堂をとりまき、政友会と国民党の議員を激励した。1/20、桂首相は在京の新聞記者を招き、新政党の組織計画を発表した。1/20、国民党を脱党した大石正巳、河野広中、島田三郎らは、1/31、桂新党に参加する代議士を帝国ホテルに招き、立憲同志会を発足させたが、参会したのは国民党脱党者46名、中央倶楽部34名、無所属3名、計83名で政友会からの加入はなく、政友会の対抗勢力を固めようとした桂の期待は外れた。議会を開くと不信任案が通ると決まっているので、桂首相は1/21、15日間、2/5、5日間と停会を繰り返した。2/8、西園寺政友会総裁と会見、不信任案の撤回を求めたが、西園寺は拒否したが、2/9天皇が西園寺に衆議院の紛糾を解決せよと命令してきた。困った西園寺は2/10、政友会総裁を辞任、同日の政友会総会は不信任案を撤回せずと決議した。万策尽きた桂は、民衆のとりまく議事堂の中で、総辞職を決意、2/11総辞職した。桂内閣が総辞職すると、元老会議は2/11、後継に山本権兵衛を推薦した。2/19、政友会議員総会は、山本内閣援助方針を決め、2/20山本内閣が成立した。外相、陸海軍を除く全閣僚が政友会員だった。国民党は政友会との提携を断絶し、2/23尾崎行雄ら20数名の代議士は政友会を脱党し政友倶楽部を結成した。山本首相は軍部大臣現役制を改正すると衆議院で言明、参謀総長・長谷川好道の反対などがあったが、6/13陸・海軍の官制を改正、大臣、次官の任命資格を現役とする制限を撤廃した。山本首相は、文官任用令も改正すると衆議院で言明、8/1に各省の次官、警視総監、勅任参事官が自由任用になった。袁世凱の中国政府軍が9/1南京を占領すると、日本人殺害事件が起った。また、日本では9/5、外務省政務局長阿部守太郎が、軟弱外交を非難する壮士に刺された。9/7の日比谷の対支問題国民大会は、中国出兵要求を可決した。10/5、日本政府は中国より満蒙の三鉄道の借款権と二鉄道の借款優先権を獲得した。10/6、政府は中華民国を承認、支那共和国と呼ぶことにした。12/23、立憲同志会結党式が行われ、加藤高明が総裁に就任した。また、亦楽会と政友会倶楽部が12/19合同し12/24中正会となった。

感想

軍部の抵抗により、前年の12/21、第二次西園寺内閣が倒れ、桂内閣になったが、憲政擁護、閥族打破の運動が盛り上がり、桂首相は、新政党を組織しようとしたが成功せず、詔勅により内閣不信任案の提出を止めようとしたが、西園寺は政友会総裁を辞任して、政友会総会は不信任案を撤回せずと決議した。2/11、民衆の取り巻く議事堂の中で、桂首相は総辞職を決めた。民衆の行動が力を示したのは、特筆できる。中華民国が成立、日本もこれを承認、満蒙における権益を確保した。この過程で、中国に出兵して、分割支配をすべきだとの強硬な勢力があり、軟弱外交だと外務省の阿部政務局長が刺された。日清、日露戦争に勝利し、中国の内乱に乗じ、民衆が満州、中国へと出兵して、領土を拡張すべきとの運動があり、民衆の運動に流され政治、外交を行う危険性を感ずる。

1914年(大正3年)

京都帝大法科大学と沢柳総長との対立事件は、1/24文部大臣・奥田義人が教授会の人事権を承認、4/28に沢柳総長が依願免職となり落着した。1/23、シーメンス社が日本海軍高官に贈賄していたと報じられ、2/9、海軍大佐・沢崎寛猛が拘禁され、2/18、呉鎮守府長官・松本和が家宅捜査され、3/31に拘禁される等事件が拡大した。2/12、衆議院は海軍拡張費を3000万円減額して可決、3/23、貴族院は更に4000万円を削減、3/23、貴族院は両院協議会案を否決、予算は不成立となった為、3/24、山本内閣は総辞職した。元老会議は、3/28、後継首班に貴族院議長・徳川家達を推薦したが辞退、3/31、枢密顧問官・清浦奎吾に組閣を命じられたが、海軍大臣に予定の加藤友三郎が軍艦建造費950万円の支出を要求して譲らず、組閣は断念した。4/13、三人目の候補に、大隈重信が押された。大隈には非政友勢力をまとめる事を期待されたが、国民党の犬養毅は入閣を拒否、尾崎行雄は入閣、4/16第二次大隈内閣が発足した。第一次世界大戦に、8/4、イギリスが参戦、8/7、イギリス駐日大使・グリーンが日本の対独参戦を要請してきたので、8/8、元老と大臣が協議、対独戦参加を決定した。8/23、対独宣戦布告、9/2、山東半島竜口に上陸開始、10/14、日本海軍は、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領した。11/7には、青島を占領、12/3、加藤高明外相は中華大使日置益に対華21カ条要求を訓令した。友愛会は9/19、第1回協議会を開始した。大杉栄、荒畑寒村らは、10/15、月刊・平民新聞を創刊したが発禁が続き長く続かなかった。政府提出の軍艦建造費は国民党の支持で可決されたが、2個師団増設案は否決され、12/25、衆議院は解散された。

感想

シーメンス事件が起き、それに伴い海軍関係の予算が減額され、予算が不成立となり山本内閣が総辞職した。後継の組閣は難航したが、元老・井上馨の推した第二次大隈内閣が成立した。第1次世界大戦が起き、イギリスから参戦を求められると、加藤外相は積極的に、参戦を推進し、山東半島への進出、ドイツ領南洋諸島の占領、更に対華21カ条の要求など、このチャンスとばかり、権益の伸張を図った。元老・井上馨などは「大正新時代の天佑」と叫んだと言われる。

1915年(大正4年)

1/18、日置駐華公使は、袁世凱大統領に5号21カ條に及ぶ要求を正式につきつけた。中国では、軍閥の将領から一般民衆まで、広い階層にわたる反対運動がおこった。2/11、東京の中国留学生が抗議の大会を開催した。日中両政府間で修正案の応酬があった後、5/4、閣議は対華最終通告案を決定した。5/9、中国は、日本の要求をすべて承認した。3/25、衆議院の総選挙が行われ、同志会153名、中正会、大隈支持の無所属を加えると与党が圧倒的多数となった。政友会は104名ではじめて第2党に転落した。大杉栄、荒畑寒村らは10/1、第2次「近代思想」を創刊したが、2号以降連続発禁で長く続かなかった。政友会代議士村野常右衛門は、5/25、大浦兼武内相を選挙違反、収賄容疑で告発した。7/28、衆議院書記官長林田亀太郎も拘引され、翌29日、大浦兼武内相が辞表を提出した。7/30には、大隈首相以下が辞表を提出したが、元老の慰留により大隈は留任、本当に止めたのは大浦の他は、加藤外相、若槻蔵相、八代海相だけだった。11/30、日、仏、英、伊、露の5カ国が単独不講和宣言に調印した。日、英、露の3国は共同で、中国の袁世凱に対し、帝政を延期するように勧告、11/11、中国は帝政延期を正式に通告してきた。天皇は、11/10、京都御所紫宸殿で即位礼を行った。

感想

大隈内閣は、中国の袁世凱に21カ条の要求をつきつけ、中国からも列強からも警戒され、国内でも批判をあびた。3月の総選挙では、大隈流の大風呂敷選挙と、大浦兼武内相の干渉選挙で、与党の同志会が勝利し、政友会を第1党の座から蹴落とした。言論は抑圧され、世界の列強に伍して、帝国主義的拡張を期した時代だつたと思う。

1916年(大正5年)

大正デモクラシーの論壇が賑やかになり、吉野作造佐々木惣一が「中央公論」や「大阪朝日」で活躍し始めた。大陸浪人の福田和五郎が袁世凱排撃を要求して、1/12、大隈首相に爆弾入り缶詰を投げつけたが不発だった。減債基金問題で貴族院は政府を追及していたが、大隈は山縣に調停を依頼、2/8貴族院は付帯条件付きで予算案を可決した。3/7の閣議で、中国の南軍を交戦団体と認め、民間雄志の排袁運動を黙認するとの方針を決めた。3/7に閣議決定すると大倉喜八郎は、粛親王に宗社党軍資金として100万円を融資し、参謀本部は土井市之進大佐に続き小磯国昭少佐を満州に派遣、宗社党を支援した。5/27、三村豊予備少尉が奉天将軍張作霖の馬車に体当たりで爆砕したが張作霖は無事だった。6/6、袁世凱が死ぬと、日本政府は後任の黎元洪を利用する方向に切りかえたが、軍や民間の満蒙独立運動の余波は尚も続いた。原敬政友会、加藤高明同志会、犬養毅国民党の3党首は子爵三浦梧楼の斡旋で5/24会談し、6/6、外交国防方針につき、元老などの干渉を許さず、政党政治の確立の為三者が協力していくとの覚書を作成したが、加藤が及び腰だったので直ちに効力を発揮しなかった。山縣有朋は10/1、大隈首相の辞意を確認し、大隈は10/4加藤を後継に押したが取り上げられず、元老は寺内正毅を次期首相に推薦した。10/9、寺内は同志会の協力も得られず、与党のない純粋の官僚内閣として発足した。10/10、立憲同志会、中正会、交友倶楽部は合同して、衆議院の過半数を制する政党となり、加藤高明が総裁になった。

感想

大正デモクラシーの論議が盛んになり、政党も組閣や、外交国防方針について元老の干渉を排する事を申し合わせたが、効力を発揮しなかった。元老の後押しで、与党のない純粋な官僚内閣の、寺内内閣が成立した。中国では、袁世凱が皇帝に就任したので、反袁運動が起き、日本の民間人がこれを支援することを大隈政府は黙認した。満蒙の独立運動を満州の日本軍が支援したが、政府の方針に基づくものでもなく、一部の民間人と軍部の独断によるものであり、長期的なビジォンなどは見られない。大隈政府の対中国政策も右往左往の感じである。