1909年(明治42年)
憲政本党の常議員会は非政友各派の大合同をめぐり対立、2/27院内総理犬養毅を除名したが、3/2の代議士会では犬養信任が決議され、10/28の党大会までもちこされ、妥協が成立した。砂糖消費税引き上げにからむ大日本製糖の疑獄事件の検挙が4/11から始まり、逮捕者は日糖の旧重役のほとんどと代議士24人に及んだ。7/3の予審判決では、24人の代議士中23人が有罪となり、7/11前社長の酒匂常明はピストル自殺をした。伊藤博文・韓国統監は列国への配慮と韓国内の条件が熟するまで併合を待つ方針をとってきたが、6/14伊藤は枢密院議長を命ぜられ、韓国統監を辞任、副統監の曽根荒助が昇格した。7/6の閣議は適当な時期に韓国併合を断行するとの方針を決めた。12/4韓国一進会は韓国皇帝及び統監に、日韓合邦に関する上奏及び嘆願書を提出したが却下された。8/19清国との間に、安奉鉄道改築工事について覚書が調印された。9/4、間島に関する協約、満州五案件に関する協約が結ばれた。10/11、三井家が改組し三井合名会社になった。枢密院議長の伊藤博文が、10/26ハルビン駅で韓国民族独立運動家の安重根に撃たれて死亡。
感想
韓国併合について、伊藤博文は時期尚早との見解だったが、韓国統監を辞任、枢密院議長に転じ、内閣は韓国を併合するとの方針を決めた。日本に近い韓国一進会が韓国皇帝及び統監にに日韓合邦について嘆願書を提出したが却下された。伊藤博文がハルビン駅で安重根により撃たれ死亡。など韓国併合について色々な動きのあった年だった。間島は豆満江の北側で今でも朝鮮族が多く住んでいる地域だが、この年の日清協約で、日本は間島が清国に属することを認める代わりに南満州の鉄道に関する権益を認めさせ、これが現在でも領土問題として問題化していることを初めて知った。
1910年(明治43年)
前年末にアメリカが要求してきた満州鉄道中立提議に対し、1/21、日露両国は不同意と回答した。7/4、満州の現状維持と鉄道についての相互協力を規定する第2回日露協約に調印した。1/23、逗子開成中学の生徒が、七里ケ浜でボートで遭難、3/12、房総沖で漁船133隻が暴風雨で遭難、2000余人が溺死、4/15、広島湾で潜水艦が浮上せず、佐久間艇長ら乗組員全員死亡、7/22、大阪商船の鉄嶺丸が竹島灯台付近で沈没、200余人が溺死など海の遭難事故が多発した。3/1、中村弥六ら戊申倶楽部の一部が大同倶楽部と合同し代議士50名の中央倶楽部を結成。一方、憲政本党は又新会、無名会と合同、3/13、立憲国民党を結成した。5/25、宮下太吉が爆発物製造の嫌疑で逮捕され、これを皮切りに検挙が続き、6/1、幸徳秋水は湯河原で逮捕された。韓国併合の方針をかためていた政府は、5/30、寺内正毅を陸軍大臣兼務のまま韓国統監に任命した。6/3の閣議は韓国併合後の施政方針を決めた。憲法を適用せず、総督が総ての政務を統括するというものであった。8/16、寺内統監は韓国首相李完用に日韓併合に関する覚書を交付、8/22、日韓併合に関する日韓条約に調印した。8/29、併合に関する詔書で韓国王室を皇族として遇することになった。8/22、韓国の国号は改められ、同地域を朝鮮と称し、朝鮮総督府を置くことが公布された。9/30、朝鮮総督府官制が公布され、総督は陸海軍大将とすることが定められた。10/1、韓国統監寺内正毅が初代朝鮮総督に任命された。
感想
韓国の併合が行われ、朝鮮と称し、陸海軍大将が総督になる朝鮮総督府がおかれ、統治することになった。幸徳秋水ほか26名の社会主義者が、大逆を企てたとのでっちあげで逮捕された。軍部独裁、天皇の尊崇と利用、社会主義など反政府運動の弾圧など暗い時代の幕開けを感ずる。言論も抑圧され、幸徳事件の報道は規制された。
1911年(明治44年)
1/18、大審院は幸徳秋水ら24名に死刑の判決を下し、翌19日、12名を無期に減刑した。1/24、12名の死刑が執行されたが、各国の社会主義者から日本の在外公館に抗議が集中した。2/1、徳富蘆花は第一高等学校で「謀叛論」の演説を行い、幸徳らの処刑を批判、校長の新渡戸稲造の譴責問題に発展した。1/26、桂首相は政友会総裁西園寺公望と会談、政府と政友会の提携が成立した。2/4、代議士藤沢元造は、国定教科書に南北朝併立の事実が記載されているとして非難する質問書を提出したが、政府は策をめぐらせこれを撤回させた。該当の教科書は使用禁止した。日米新通商航海条約及び付属議定書が2/21調印され、日本は関税自主権を確立した。4/3には日英通商航海条約が調印された。衆議院は3/11松本君平らの提出した普通選挙法案を可決した。しかし貴族院は3/15これを否決した。5/30普通選挙同盟会は政府の圧力により自発的に解散した。工場法が3/29に公布された。これは日本での最初の労働立法だった。11/15東京市は浅草、芝職業紹介所を開設した。8/30第二次西園寺内閣が成立した。中国の武昌で革命派と軍隊が蜂起して辛亥革命が始まった。片山潜、藤田四郎らは10/25社会党を結成したが、27日に禁止された。又、斉藤兼次郎、寺内久太郎らは、11/7独立労働党を結成したが9日に禁止された。
感想
幸徳秋水らの死刑が執行され、暗い時代が始まった。普通選挙法案も貴族院で否決された。社会党など結成されたが、直ちに政府が禁止した。日米、日英の新通商航海条約が締結され、初めて関税自主権を獲得した。
1912年(明治45年、大正元年)
中国では1/1南京に革命側の臨時政府が成立し、孫文が臨時大統領に就任した。かねて親交のあった犬養毅、頭山満は中国に渡り、孫文と会見した。株式会社大倉組は、中国革命政府に江蘇省の鉄道を担保として300万円の借款を供与した。三井物産も1/29内田良平を代理人として同じく30万円の借款を供与した。2/12宣統帝が退位して、清朝は滅亡した。2/13、孫文は大統領辞任を表明した。2/15、袁世凱を南京参議院は臨時大統領に推した。3/10袁は北京で臨時大統領に就任。4/1孫文は正式に大統領を辞任した。袁世凱政権が成立すると、英、米、独、仏列国は、袁に借款を与えることにより中国への支配を強めようとし始めた。日、露もこれに追随した。5/5日本はロシアに対し四国借款団に共同加入することを提案し、ロシアは同意した。3/18、南満州における日本の権利を留保して四国借款団に加入する旨四国政府に申し入れた。呉の海軍工廠で、3/29からストライキが始まり、4/1には一万人に達する大ストライキになった。7/30天皇が没し、皇太子嘉仁が践祚し、大正と改元した。9/13明治天皇の大喪が東京青山で行われ,乃木希典大将夫妻が殉死した。鈴木文治らが8/1友愛会を結成した。10/1大杉栄、荒畑寒村らは近代思想を創刊、2年間続いた。奈良県下の被差別部落民が大和同志会を結成、8/20奈良市で第1回大会を開いた。11/7内務省は細民部落改善協議会を開いた。11/10西園寺首相は、師団増設繰延問題につき、元老の山縣有朋と会談したが意見は不一致だった。11/22陸軍大臣・上原勇作は朝鮮に二個師団を増設する案を閣議に提出したが、11/30の閣議はこれを否決した。上原は、12/2単独で辞表を提出、後継陸相を得られなかった西園寺内閣は12/5総辞職した。翌6日、元老会議は西園寺に留任を要請したが西園寺は拒否した。元老会議は後継の推薦に困ったが、12/17桂太郎に組閣命令が出た。同日海軍大臣斉藤実は海軍充実計画の延期に反対して留任を拒否したが、21日天皇が詔により留任を命令した。12/21第3次桂内閣が成立した。
感想
中国の辛亥革命により、孫文が臨時大統領になり、次いで軍閥を抑えるために袁世凱が大統領に就任した。英、米、独、仏の四国、次いで日、露は、袁世凱政権に借款を供与して、中国への支配を強めようとした。明治天皇が崩御し、大正天皇が即位した。陸軍が2個師団増設に絡み、内閣への非協力が西園寺内閣を崩壊させた。第3次桂内閣の発足にあたり、今度は海軍が非協力の態度を見せ、天皇の詔により納まった。軍部の内閣への非協力による支配が始まった。