1905年(明治38年)

前年末の旅順への総攻撃で、日本軍は203高地を占領、港内の軍艦を砲撃するための観測点を確保、有利な攻撃態勢で圧迫を強めていたが、1/1にロシア軍は降伏をを申し出て、1/2に開城規約調印、1/13に入城した。3/1から日本軍は奉天総攻撃を開始、3/10に占領した。3/10が陸軍記念日となる。非戦論を唱えていた平民社の「平民新聞」は、朝憲紊乱で起訴され、発行禁止、幸徳秋水は軽禁固5ケ月の判決を受けたので1月末に最終号を出し歴史を閉じた。代って「直言」が平民社の機関紙とされ、2/5から再出発、9/10まで続いた。ロシアはバルチック艦隊を大西洋、印度洋廻りで日本海に送り込んできたが、東郷平八郎を司令長官とする連合艦隊は、これを対馬海峡で迎え撃ち、5/27〜28にかけての日本海海戦で圧倒的な勝利を収めた。5/27が海軍記念日となった。政府は4/21、講和の為の絶対必要条件3項目、相対必要条件4項目を定め、6/1駐米公使・高平小五郎はアメリカ大統領に斡旋を依頼、大統領は6/9正式に講和を勧告した。日本は直ちに勧告を受諾したが、講和会議を有利に運ぶため、7/7第13師団を樺太に上陸させ、7/末までに全島を占領した。イギリスは5/17、日英同盟を攻守同盟とし、適用地域にインドを含めることを提議してきた。日本もこれに賛成、8/12にロンドンで第2回同盟協約が調印された。桂首相は7/29、来日中のアメリカ陸軍長官タフトと韓国、フィリピン問題について、桂・タフト覚書を成立させ、8/7にアメリカ大統領が承認する旨の通告を8/7に受け取った。日本とロシアの講和会議は8/10からアメリカのポーツマスで開始された。日本全権は小村寿太郎、ロシアはウイッテであった。曲折の末、9/5日露講和条約が調印された。調印に先立つ9/1に、国民新聞を除く有力新聞はこぞって反対を唱えた。9/3大阪で、9/5東京で講和反対の大会が開かれ、東京の大会は焼打ち事件に発展し、翌6日に戒厳令が公布された。桂首相は8/14、政友会の実力者原敬を呼び、講和締結後の総辞職と後継首相に政友会総裁の西園寺公望を押す意向を伝えた。原敬はいかなる講和条約にも賛成すると言明した。12/17、第1次桂太郎内閣は総辞職し、翌年の1/7に第1次の西園寺公望内閣が成立した。

「感想」

この年の出来事を記載していて感ずるのは、当時の世界の先進国は、武力と外交で帝国主義としての国益を追求しており、遅ればせながら明治維新後の富国強兵策により、帝国主義の仲間入りをした日本は、日清戦争で清国に勝利し、日露戦争で大国ロシアに勝利して、世界での日本の存在感を高めることが出来た。イギリスの思惑は、日本を利用して、大国ロシアの南下を抑え、清国、インドの権益を確保することであり、桂・タフトの覚書は日本の韓国への支配をアメリカが認め、代わりに日本がアメリカのヒリッピンの植民地化を容認するといった取引であった。幸徳秋水は世界の帝国主義に反対し、日本の帝国主義化に反対し、非戦論を唱え、主張は極めて清く正しいものではあるが、当時としては現実離れした考えで、弾圧された。当時の世論は、新聞が先頭に立って、勝利に酔い、軟弱な外交として日露講和条約調印に反対し、焼打ちまで行っている。東郷平八郎の業績を調べていて、戊辰戦争のどさくさの最中に、理由無く、政府軍により斬に処せられた幕臣・小栗上野介の存在を知った。

1906年(明治39年)

1/7政友会総裁・西園寺公望を首相とする内閣が発足した。この内閣は社会党の結成を承認するなど柔軟な政策がめだった。樋口伝、西川光二郎らは1/14日本平民党を結成した。また、堺利彦、深尾韶らは1/28日本社会党を結成した。この両派が合同して、2/24日本社会党第1回大会を開催した。3/11、東京市電値上げ反対市民大会が開催され、3/15には約2000名の反対デモが市庁や電鉄会社に押しかけた。8/1に値上げが認可されたので、9/5再び反対運動が激化して一部で暴動化した。3/31鉄道国有法が公布された。10年以内に主要鉄道のすべてを国有化するという内容だった。6/8南満州鉄道株式会社の設立方針が勅令で公布され、7/13児玉源太郎を委員長とする設立委員会が設置された。11/26、資本金2億円の株式会社南満州鉄道が設立され、初代総裁は後藤新平だった。韓国で、5/19閔宗植が挙兵して満州城を占領したが5/末日本軍が奪回した。6/21日本の警察と韓国軍が協同して崔益鉉、林柄サンらの反乱を鎮圧した。8/1関東都督府官制が勅令で公布された。9/1陸軍大将・大島義昌が都督に任命された。9/25、旅順鎮守府条例が勅令で公布された。小石川砲兵工廠、呉の海軍工廠、大阪の砲兵工廠などで、解雇、賃上げなどの争議が起きた。9/5、宮崎滔天が「革命評論」を創刊、11月に北一輝が同人に加わった。間もなく秘密結社・中国革命同盟会ができあがった。

「感想」

西園寺公望は、若い頃、22〜31才の長期間フランスに留学、パリ・コンミューンなど身近に見、帰国してから中江兆民らと自由民権運動に加わったこともある。明治天皇の遊び仲間であり、皇室と近く、大正天皇、昭和天皇の相談相手であり、養育にも関与した。社会党の結成を承認するなど柔軟な政策はその為と思われる。日露戦争に勝利して、関東州、南満州鉄道の経営が課題になるが、関東都督は陸軍大将か中将がなることになり、今後の満州の経営に陸軍の影響が大きくなる端緒になったと思う。児玉源太郎の後ろ盾で、台湾の経営で実績のあった後藤新平に、児玉から再び南満鉄の総裁になるべく要請されたが、陸軍の影響が増大している状況下で固辞していたが、児玉の急逝により引き受けることになった。イギリス、アメリカからは、満州の門戸開放について、様々な抗議、要請がくるようになった。これは、将来の米、英との衝突の萌芽と思われる。

1907年(明治40年)

1/15に社会主義社が再結集、日刊平民新聞が創刊されたが、3/27に山口孤剣の「父母を蹴れ」が起訴され発行禁止となり、4/14に終った。2/4足尾銅山で坑夫と職員の衝突があり、同6日に大暴動に発展、高崎の連隊が出動して鎮圧した。6/2に別子銅山で賃上げ運動にからみ暴動が起き、やはり軍隊が出動して鎮圧した。3/21、小学校令を改正し、尋常小学校義務教育年限を6年に延長した。6/10パリで、日仏協約および仏領インドシナに関する日仏宣言が調印された。6/15からハーグで第2回平和会議が開かれたが、韓国皇帝は密かに密使を送り、日本の侵略を訴えた。各国ともこれを受け付けず、事件は日本側につつぬけになっていた。このため、伊藤博文韓国統監は皇帝の責任を追及、譲位を要請、新帝の即位が強行された。その為、韓国内が騒然となり、首相・李完用の邸宅の焼打ち等が起きた。この非常事態を逆用して、7/24伊藤は第3次日韓協約を結び、外交権の剥奪に加え、内政の一切の権利を統監の指導下においた。8/1には、新皇帝の命令で軍隊の解散が強行された。7/30日露協約が調印された。相互の領土権の尊重,清国の領土保全、機会均等が取り決められた。11/16駐日アメリカ大使は小村外相宛の書簡で労働者渡航制限を要請、日本は移民の自主規制を約束した。

「感想」

社会主義運動の動きは、言論の自由の抑圧を受け、労働争議は暴動化して軍隊の出動により鎮圧された。韓国への支配は進み、外交権の剥奪、内政の支配、遂には軍隊の解散に至った。韓国内で抵抗があったが、軍隊の出動により鎮圧された。この韓国への支配は、米国はヒリッピンへの支配、フランスはインドシナの支配、イギリスは清国内の権利の維持の容認を交換条件にして帝国主義各国は容認していた。この状況を現在の視点で見ると、明らかな帝国主義的な侵略であるが、その時代では日本も一歩誤れば、欧米列強の植民地化の危険もあった。明治維新が特定の国の援助によらなかった事、列強のバランスをうまく図ったこと、いち早く富国強兵策に邁進して先進国入りを目指したことなど当時のリーダーは優れていたと思う。しかし、現時点で見ると、韓国人への加害は謝ることはないが結果として認めるべきと思う。

1908年(明治41年)

1/23衆議院本会議で西園寺内閣不信任案は賛成168に対し、反対177で辛うじて否決された。外務省は呼び寄せ移民を除くハワイ移民の停止を、1/25、各移民会社に言い渡した。2/28林外務大臣は移民制限の実行方法につき第7号の回答をして、これで移民についての日米紳士協約が成立した。2/5武器を搭載した汽船第2辰丸が、澳門沖で清国軍艦に抑留された。日本は不当な抑留として謝罪と賠償を要求、3/15に解決したが、これに反発して広東などで日貨排斥運動が激しくなり、各地に広まった。3/3麻布歩兵代連隊の兵卒32名が、3/18大阪の歩兵代62連隊の兵卒13名が上官の苛酷な仕打ちに憤慨集団で脱営した。アメリカ移民に代り、ブラジル移民が開拓され、4/28に第1次ブラジル移民783人が出発した。山縣有朋が現西園寺内閣の社会主義取締のてぬるさを天皇に讒訴した結果、天皇からの督促を受け、7/4西園寺内閣は総辞職し、7/14第2次桂内閣が成立した。日露戦争後、労働争議や小作争議の頻発する社会風潮に不安を感じた桂首相は10/13天皇の権威をかりて戊申詔書を煥発した。太平洋問題および清国における機会均等主義について、日米交換公文がまとまり、高平・ルート協定として12/2公示された。

「感想」

明治元年に初めてハワイへ移民153名が渡ったが、トラブルが生じ40名が帰国した。明治18年に官約によるハワイ移民が開始され、明治27年には民間移民会社の手に移行、移民が継続していたが、明治31年にハワイを併合したアメリカは移民の制限を求め日本政府が応じた。代りにブラジルへの移民が開始された。移住先では苛酷な労働を強いられ大変に苦労した話が伝わっているが、その困難を克服して成功した人もいる。第2辰丸事件では、清国民の反発を招き反日運動が起きた。軍隊内では、上官の苛酷な仕打ちに憤激して集団脱営が起きた。労働争議や小作争議などの社会不安に対し、天皇の権威をかりた戊申詔書の煥発など本質の解決にはなっていない。