1901年(明治34年)「感想」
黒龍会という右翼団体が結成された。4/3労働者の大懇親会が開催された、メ-デーの始まり。社会民主党の結成が試みられたが、禁止された。星亨が暗殺された。伊藤内閣が閣内不統一で辞職、桂内閣が発足した。
1902年(明治35年)
弘前の第8師団第5連隊の第2大隊の2百余名が、1/23から八甲田山中の雪中行軍に出かけ遭難、死者197名。1/30ロンドンで日英同盟が調印された。中村孫六、花井卓蔵、河野広中らは2/12に、最初の普通選挙法案を衆議院に提出したが2/25否決された。前年成功を収めた「26新報」主催の日本労働者大懇親会は、第2回の会を神田警察署から3/15禁止の通告を受けた。抗議の政談演説会を3/22に開き、改めて3/24労働組合期成会名で労働者大懇親会の開催を企てたが、これも警視庁から禁止された。文部省は3/28広島高師、神戸高商、盛岡高等農林、京都高等工芸学校を設立。9/2東京専門学校が早稲田大学と改称、10/19に記念式典を挙行した。第7回総選挙が8/10に行われたが、これは国会開設以来、初めての任期満了による選挙だった。桂首相は、11/2政友会総裁伊藤博文と会談、地租増徴継続による海軍拡張計画につき了解を求めたが、11/30反対の意見を述べた。12/4政友会と憲政本党がそれぞれ大会を開き、地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減によれと決議した。12/6、第17回通常議会が召集され、衆議院は12/16地租条例改正案を委員会で否決、12/27の桂首相による政友会、憲政本党との妥協策の交渉も物別れに終わり、12/27衆議院は解散された。
「感想」
日英同盟が調印され、今後の日本の国防的地位を決定し、日露戦争への道を開いたと言える。任期満了による総選挙が8/10に行われたが、12/18には地租増徴継続による海軍拡張計画について、政府案が承認されず、解散された。又もや、議員内閣制になっていない矛盾が露呈した。労働運動に対しては、集会禁止など干渉が行われた。
1903年(明治36年)
桂首相は、地租増徴継続の中止、海軍拡張費には鉄道建設費を当て、鉄道建設費は公債でまかなうとの妥協案を閣議決定(1/25)。3/1第8回衆議院選挙を行ったが、政友会が第1党、憲政本党が第2党という大勢に変わりが無かった。政友会総裁・伊藤博文、桂内閣の妥協により妥協案が成立(5/24)。1/31京都綿ネル会社、5/14長崎三菱造船所、6/12大阪人力車夫の罷業など争議が起きた。4/21桂首相、小村外相、山縣有朋、伊藤博文らは京都で会合、6/23御前会議で満韓交換論的な対ロシア策を決定。東京帝大法科大学の戸水寛人、小野塚喜平次、富井政章ら7博士は、6/10満韓交換的な対ロシア交渉方針に反対、対露強硬策の建議書を政府に提出、6/24東京朝日に公表。また頭山満、神鞭知常らは対露同志会を結成、満韓交換論を批判した。山縣は伊藤の政友会総裁を辞めさせるため暗躍、7/8勅命により枢密院議長に任命、7/14後任は西園寺公望が就任。8/12ロシア駐在の栗野公使は対ロ協定案をロシア外相に提出、10/3日本駐在ロシア公使・ローゼンがロシア側対案を提出、10/6から小村、ローゼン会議が開始されたが一致点は見出せなかった。「万朝報」にいた内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦は10/12開戦論に転じた新聞社に留まれないと退社の辞を発表、11/15幸徳、堺は平民社を結成、週刊・平民新聞を発刊、非戦論と社会主義を主張した。12/10衆議院開院式で、河野広中議長は、政府弾劾の意味をこめた勅語奏答文を提出し可決、翌12日に衆議院は又もや解散させられた。
「感想」
政府は満韓交換的な対ロ交渉案を決めたが、東京帝大の7博士、頭山満らの対露同志会、万朝報などの新聞論調は対露強硬策を唱えた。これに対し、内村、幸徳、堺らは非戦論を主張。12/11又もや衆議院は解散させられ、政府と議会の乖離状態は続く。
1904年(明治37年)
駐日ロシア公使ローゼンは、1/6ロシア側最終提案を小村外相に提出。日本側は1/12の御前会議で日本側最終案を決定、1/26ロシア側の回答を督促したが効果なく、2/4の御前会議は、交渉の打ち切り、軍事行動に移る決議し、2/6栗野公使は国交断絶を通告した。2/8陸軍の先遣部隊が仁川に上陸、海軍は旅順港外のロシア艦隊を攻撃、翌9日には仁川のロシア軍艦2隻を撃破。2/10ロシアに宣戦布告、日露戦争が公式に開始された。閣議は2/17ロンドン市場で英貨公債募集の方針を決め、5/10に1000万ポンド、11/10に1200万ポンドの募集を公布、成功した。2/27、韓国駐在全権公使・林権助の努力で日韓議定書が調印された。次いで、これを足がかりに日本政府は、韓国を保護国化する政策を強力に推進し、8/23に第1次日韓協約が結ばれた。旅順港にいるロシア艦隊の活動を封ずるため、2/24に第1次、3/27に第2次、5/3に第3次の旅順港閉塞作戦を行ったが完全には成功しなかった。8/10に旅順のロシア艦隊は出撃し、黄海で日本連合艦隊と交戦、敗れて旅順港に戻った。3/1に衆議院の総選挙が行われ、3/1に臨時議会が、11/28に通常議会が召集されたが、戦時下の為波乱は無かった。陸戦では5/1、第1軍が鴨緑江を渡り、九連城を占領、5/26、第2軍は南山を占領した。6/20満州軍総司令部が編成され、総司令官に大山巌が、参謀総長には児玉源太郎が任命された。旅順攻撃のため編成された第3軍は8/19に第1回総攻撃を行ったが失敗。第1、第2、第4軍は8/28遼陽に向かい進軍、9/4に占領した。平民新聞は11/13に共産党宣言訳をのせ発行禁止に、11/16には社会主義協会に結社禁止命令が出された。
「感想」
日露交渉が決裂、日露戦争が始まる。日本海軍は宣戦布告の前に旅順、仁川の両港にいたロシア軍艦を叩き、いち早く黄海の制海権を確保、これで陸軍は直接北朝鮮から満州に進攻できた。韓国に対しては、日韓議定書及び日韓協約を結び、朝鮮の保護国化を進めた。