1897年(明治30年)「感想」
足尾鉱山の鉱毒問題が重大化。社会主義運動、労働組合結成の動きが出た。内閣と政党間の対立により、松方内閣が辞職、議員内閣制になっていない矛盾の露呈は相変わらず。産業奨励策により、後の八幡製鉄所に発展する製鉄所が建設開始。清国からの賠償金が入り、国の発展の為の資金として大きく寄与した。
1898年(明治31年)
1/12第3次i伊藤内閣が成立したが、政党との提携はうまくいかなかった。日本鉄道会社の機関手らが待遇期成大同盟会を結成したが、首謀者が解雇されたので2/24からストライキに突入した。これは最初の鉄道ストライキである。三井富岡製糸所の通勤工女は、労働条件改定に反対、ストライキに入り、3/15まで続けた。6/10自由党と改進党が提携して、地租増徴案を衆議院本会議場で否決したので、伊藤内閣は衆議院を解散した。東京美術学校で運営についての騒動があり、校長岡倉天心が免職になり、橋本雅邦、横山大観、下村観山ら17人が校長に殉じて辞職(3/29)。岡倉天心らは日本美術院を創設、開院式を行う(10/15)。進歩党と自由党は合同して憲政党になった(6/22)。伊藤首相は6/24辞表を提出、6/30に大隈首相兼外相、板垣内相の最初の政党内閣が成立した。8/10の第6回臨時総選挙で、与党の憲政党が260名と大躍進した。この憲政党内閣も基盤が脆弱で、旧自由党系と旧進歩党の対立がきびしく、文相・尾崎行雄が8/21に行った共和政治に関する演説が攻撃され10/24辞表を提出。この後任を巡り、閣議が紛糾、旧自由党系の閣僚が辞任、ここにわずか4ケ月で大隈内閣が崩壊した(10/31)。そうして、憲政党も分裂した。次の内閣は、また長州閥の山縣有朋が総理大臣に任命され、11/18第2次山縣内閣が発足した。
「感想」
1/12成立の伊藤内閣も衆議院との関係がうまくいかず、6/24に崩壊。6/30に初めて成立した憲政党による大隈内閣も、憲政党の内部抗争により、分裂わずか4ケ月で辞任(10/31)。再び、11/18に長州閥の第2次山縣内閣となった。政党政治を嫌う勢力があり、政党そのものも成熟しておらず、内閣と議院との関係がうまくいかない。労働条件に対する組織的な運動が芽生えてきた。
1899年(明治32年)
内閣と衆議院の関係がうまくいかないこともあり、選挙法改正の動きがでた。渋沢栄一、大倉喜八郎らは衆議院議員選挙法改正期成同盟を結成(1/9)。樽井藤吉、幸徳秋水らが東京で普通選挙期成同盟会を結成(10/2)。大倉喜八郎が委員長になり、衆議院議員選挙法改正全国商業界議所連合委員会を組織(12/12)。中学校令と実業学校令が公布され、高等普通教育と実科教育の並列体制が確立(2/7)。高等女学校令が公布され、女子の高等普通教育のコースが定められた(2/8)。文部省は公認の学校で宗教上の儀式や教育を行うことを禁止(8/3)。中村弥六所有の布引丸がフィリピン独立派に弾薬提供にでかける途中、上海沖で沈没(7/21)。大井憲太郎、柳内義之助らが大阪で大日本労働協会および小作条例期成同盟会を結成(6月)。5年前に調印された日英通商航海条約をはじめ新条約が7/17から実施された。国民協会が解散、帝国党を結成、現内閣支持を決議(7/5)。アメリカ駐日公使は清国における通商上の均等な待遇につき、保証を求める覚書を青木外相に提出(12/20)、日本は列国の同意を条件に承認する旨回答(12/26)。
「感想」
明治27年に成功した条約改正が施行され、在日外国人は領事裁判権を失う代わりに、日本内の何処にでも居住することが出来る様になった。その問題点として、キリスト教の布教、低賃金の清国労働者の流入が論じられ、キリスト教系の学校への抑圧となり、青山学院、明治学院、立教中学、同志社、東洋英和学校等対応を迫られた。孫文、陳白などの中国革命家の日本への亡命、フィリピン独立運動への宮崎滔天、中村弥六などの関与などアジア諸国との関係での動きがあった。
1900年(明治33年)
改正衆議院議員選挙法が3/29公布。1/28社会主義研究会が社会主義協会に改称、会長・安部磯雄、幹事・片山潜。3/10治安警察法を公布、政治結社、集会、示威運動を規制、ストライキを事実上違法とした。教育総監部条例が改定公布され、教育総監部が参謀本部、陸軍省と並び天皇に直隷することとなった(4/24)。中国で排外民族主義運動の義和団が勢力を増し、6/8北京・天津間の鉄道が不通となり、6/20には北京の各国公使館が包囲された。清国は取締りの意志はなく、逆に北京出兵の8ケ国に対し宣戦布告をした(6/21)。日本政府は7/6混成一個師団の派遣を決定、日本軍を主力とする連合軍は北京城内に進入した(8/14)。伊藤博文が立憲政友会を立党し、憲政会がこれに合流発会した(9/15)。伊藤が政友会を結成したのを見て、山縣首相は、9/26辞表を提出、10/4伊藤と会見、後継首相に就任することを要請、10/19第4次伊藤内閣が発足した。東京市会汚職事件で、第4次伊藤内閣の逓信大臣・星亨が告発され、12/20に辞任、後任に原敬が任命された。
「感想」
旧自由党系の憲政党が解体して、新たに伊藤博文を頭に政友会が発足した。社会主義協会も新発足したが、政府は治安警察法を制定、労働運動に色々な規制を加えた。中国では、排外主義民族運動が盛り上がり(義和団)、清朝も影ながら支援、公使館を包囲した義和団に対し各国が出兵、中でも日本が各国の要請を受け約2万人の大軍を送り、主役を演じた。その後、日本は極東の憲兵の役割を担うことになった。