1893年(明治26年)

衆議院は予算案を修正可決したが、軍艦建造費の削除、官庁経費の減額で871万円を削減するという政府にとりきびしいものだった(1/12)。政府は同意せず、停会などで応じ、衆議院は内閣弾劾上奏案を可決した(2/7)。困った伊藤内閣は、詔勅により製艦費を認めさせるという奥の手を使い衆議院および貴族院は予算案を修正可決した(2/22,2/26)。郡司成忠海軍大尉ら63人が千島探検の為、ボートで隅田川を出発した(3/20)。民法、商法の審議の為、箕作麟祥(みつくり りんしょう)ら18人の委員が任命され、総裁は伊藤首相が、副総裁には西園寺公望が就任した(4/13)。朝鮮駐在公使・大石正巳は朝鮮防穀令による日本商人の損害17万円の支払いを朝鮮政府に要求したがこれに応ぜず、いらだった大石公使は軍艦派遣、税関占領などの強硬策を請訓したが、政府は強硬策を避け折衝、11万円支払いで妥協が成立した(5/19)。海軍軍令部条例で、海軍も天皇に直隷する海軍軍令部長を置き、軍制、軍令の区分は陸海軍同格となった(5/20)。伊藤内閣は、陸奥宗光外相のまとめた条約改正案と交渉方針を閣議決定した(7/8)。文官任用令と文官試験規則が公布され、高等試験で奏任官を、普通試験で判任官を採用する制度が確定した(10/31)。旧大政会の安部井磐根、熊本国権党の佐々友房、東洋自由党の大井憲太郎らが大日本協会を組織し(10月)、改進党や国民協会も同調して条約改正反対を唱えたので、政府および与党の自由党との対立が激化した。自由党出身の星亨衆議院議長の不信任決議、除名決議などで紛糾した衆議院に(12/19)現行条約励行建議案が出されたので政府は衆議院を解散した(12/30)。

「感想」

天皇の任命による内閣、政府と不完全なものだが一応国民から選挙で選ばれた衆議院、現在の様に議員内閣制になっていないので、政府方針と衆議院の意志が一致せず、お互いの攻防に明け暮れ、ちぐはぐな動きを示している。天皇に直隷する軍の力が強くなり、軍備拡張を進め、これに対し衆議院が抑制に回るという構図が出来ている。帝国大学出身者による、天皇の為の官僚制度が整備されつつある。何かあると天皇の権威が利用されている。

1894年(明治27年)

第3回の臨時総選挙。結果は現行条約励行派が条約改正派より多かった(3/1)。第6特別議会で対外硬の内容を盛り込んだ政府弾劾上奏決議案が可決された(5/31)。政府は朝鮮東学党の乱の重大化に伴う清国の出兵に対抗し、混成一個旅団を朝鮮に派遣することを決定、同時に衆議院を解散することにした(6/2)。政府は条約改正の折衝を進め、7/16日英通商航海条約と付属議定書、付属税目がロンドンで調印された(7/16)。日本は武力を背景に7/10朝鮮の内政改革案を通達、7/20には最後通牒に切りかえ、7/23には朝鮮王宮を占領した(7/23)。7/25には日本艦隊が豊島沖で清国軍艦を砲撃し、事実上の戦争状態に入り、陸戦は7/29に開始され、宣戦布告は8/1だった(日清戦争)(8/1)。第4回臨時選挙が行われ(9/1)、第7次臨時議会が大本営の置かれた広島で召集されたが戦時下なので波乱なしで終了した(10/15)。日本軍は9/16平壌を占領、9/17黄海海戦で清国の北洋艦隊に大損害を与えた。10月下旬には、第一軍は鴨緑江を越え、第二軍は遼東半島に上陸、10/21に旅順口を占領した(10/21)。日清戦争に、アメリカが講和の仲介に立ち。11/12に講和の基礎を提示した(11/12)。日本政府は朝鮮に対する内政干渉を強化していたが、(10/15)内務大臣の井上馨を駐在公使に任命、11/20国王に謁見して20カ条に上る改革を要求した(11/20)。11/22にはアメリカとの間で同様の条約改正が調印された(11/22)。清国は講和全権委員に張蔭桓、圏F濂を任命した旨アメリカを通じて通告してきた(12/20)。

「感想」

東学党の乱に手を焼き、朝鮮の大院君の朝鮮政府は鎮定の為清国に出兵を要請した。10年前の甲申事変に伴う天津条約に基ずき日本も派兵。朝鮮の内政改革案を提示、朝鮮王宮を占領した。大院君に親日政権をつくらせ、清国軍撤退命令を出させ、清国との開戦に持ち込んだ。清国兵は戦意に乏しく、日本軍は連戦連勝10月下旬には鴨緑江を越え、11月21日には旅順口を占領した。本格的な対外戦争とうち続く勝利に国民は狂喜した。戦争により議会と政府の衝突も回避された。帝国主義の手法であるが、小国日本が大国清国を破り、国際的に注目されたのは間違いない。日本は黒船来航以来、防衛の為の軍備を拡張、軍隊の士気を高めてきた。朝鮮は、自衛についての問題意識に乏しく、防衛は清国に依存していた。清国兵の士気も、他国の為に戦うのであるから高まりようもなかったのか?日本の富国強兵策の勝利と思う。現在の見方では、明らかに朝鮮への侵略であるが、当時の国際情勢としては、遅ればせながら日本も先進国の帝国主義に仲間入りしたと言う事だろう。

1895年(明治28年)

1/20から第2軍が遼東半島に上陸、威海衛を占領(2/2)。小松宮彰仁親王を3/16征討大総督に任命、総督府は旅順に到着(4/18)。清国は講和全権に李鴻章を任命、交渉場所の下関に着いた(3/19)。日清講和条約が調印された。朝鮮独立、遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲、賠償金2億両の支払いが主な内容(4/17)。満州方面へ日本の進出を嫌ったロシアがドイツとフランスを誘い、日本に干渉、遼東半島返還を要求、止む無く清国返還を閣議決定(5/4)。報償金3000両を伴う還付条約が調印された(11/8)。台湾には軍隊を送り、抵抗を排除したが、統治は不安定で最終的に完了したのは10/19だった。井上馨公使が帰国中に、朝鮮では閔妃が親日派を追放するクーデタを行った(7/6)。三浦梧楼を朝鮮への公使に任命、三浦は京城にたむろする日本人壮士と組み、大院君を擁したクーデタをやり、閔妃を殺害(10/8)。三浦公使を召還小村寿太郎が後任になった(10/17(。

「感想」

日清戦争と講和条約の締結、3国干渉により、止む無く遼東半島を清国に返還。朝鮮で閔妃が親日派追放のクーデタ、三浦公使は日本人壮士と組み、大院君を擁し、クーデタを起こし、閔妃を殺害。3国干渉に対し、国論が沸騰したが、臥薪嘗胆、遼東半島を清国に返還した。後の日露戦争の原因になったと思う。

1896年(明治29年)

朝鮮国王は、女官の輿に乗り、警備の隙にロシア公使館に移った(2/11)。新政府はロシア公使館内に置かれ、京城はロイアの勢力が増大した。山縣有朋が特派全権大使に任命され、朝鮮問題につき、ロシア外相ロバノフ交渉、議定書に調印(6/9)。自由党は総理の板垣退助を内務大臣として入閣させ、伊藤内閣の与党となった(4/14)。更に伊藤は松方正義、大隈重信の入閣をもくろんだが板垣の反対で失敗、辞表を提出(8/28)。三陸地方に大津波が襲い、死者27122人、家屋流失10390戸の大被害を受けた(6/15)。8月30日から9月にかけ、全国的に暴風雨が相次ぎ大きな被害が出た。9月18日、松方正義が首相兼蔵相に任命され、第2次松方内閣に進歩党の大隈重信が外務大臣に就任した(9/22)。長州藩の宮廷支配と土方久元宮内大臣の専横を攻撃した雑誌「26世紀」及び批判を支持した「日本」「万朝報」「国民新聞」発売禁止処分を受けた。この年、赤痢による死者22000人余、腸チフスによる死者が9000人を越えた。

「感想」

自由党が第2次伊藤内閣に接近したり、改進党が松方正義に接近、大隈重信が入閣するなど、藩閥元勲と民党の間に新しい流れが生じた。大津波、暴風雨による大被害、赤痢、腸チフスによる死者の増大など大きな社会問題が発生。朝鮮に関するロシアとの問題などに直面。新聞、雑誌等の発売禁止が相次ぎ、言論の自由が抑圧されている。