1889年(明治22年)

徴兵令が改正され、国民皆兵制となった。又、16年に設置した一年志願兵制度を予後備役幹部養成制度に改めた(1/22)。大日本憲法が紀元節の日に発布された。憲法により天皇は、絶対的専制君主として規定された。この意味で、立憲君主というのは見かけだけに過ぎなかった(2/11)。衆議院議員選挙法が公布された。直接国税15円以上納入者で25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権が与えられた(2/11)。条約改正の失敗と大同団結運動の政府攻撃で退陣した第1次伊藤内閣を継いだ黒田清隆首相は、地方長官を集め、政府は超然として政党の外に立つとの方針を訓示した(2/12)。指導者後藤象二郎の突然の入閣を機に、大同団結派が分裂した(4/30)。大隈外相の条約改正案がもれ、反対運動がおこった(5/31~6/2)。海軍の要求により、横須賀と大船間に鉄道が敷設された(6/15)。東海道線の新橋・神戸間が全線開通した(7/1)。大阪の天満紡績綛場の女工らが同盟罷業を行った。憲兵が出動、男工60余名、女工20余名が逮捕された(9/30から10/5)。富山県魚津で米騒動がおこった(10/13)。大隈外相が玄洋社員来島恒喜に爆弾を投げられ負傷した(10/18)。板垣退助が愛国公党組織の方針を発表した(12/19)。文部省が天皇・皇后の御真影を高等小学校にも下付する旨府県に通知した(12/19)。憲法制定に伴い、各国務大臣の権限が改正され、内閣職権を廃止して内閣官制が制定された(12/24)。群馬の製糸地帯と絹糸集積地の横浜とが鉄道で直結され、輸出産業としての群馬製糸業がますます盛んになった(12/26)。

「感想」

大日本憲法が制定、公布され、国民の義務及び権利が規定されたが、天皇は神聖不可侵とされ、立法は帝国議会の協賛を得て、行政は国務大臣の輔弼を得て天皇が行い、司法は天皇の名で裁判官が行なうと規定された。陸海軍は天皇の直接の統帥とされ、後の天皇の名のもとでの陸軍の暴走を許すことになったと思う。

1890年(明治23年)

徳富蘇峰が国民新聞を創刊した(2/1)。高等師範学校から女子部が独立、女子高等師範学校が設立された(3/24)。府県制と郡制が公布された(5/17)。貴族院多額納税議員の選挙が行われた(6/10)。大日本綿糸紡績同業連合会は、第一次操業短縮を開始した(6/15)新潟県の佐渡でこの年最大規模の米騒動が起きた(6/30)衆議院の第一回選挙が行われた。自由党系138、改進党46、保守党22、無所属その他147(7/1)。旧自由党系は愛国公党、自由党、大同倶楽部の三派に分かれていたが、各派有志が集まり合同問題を討議、立憲自由党の結党式を行った(9/15)。第一通常議会が召集された(11/25)。杉浦重剛元田肇末松謙澄らが、大成会を組織した(8/20)。教育勅語が発布された(10/30)。大井憲太郎はあずま新聞を創刊した(12/13)東京、横浜両市内及び両市間に電話交換が開始された(12/16)。

「感想」

第一回の衆議院選挙が行われたが、極端な制限付の選挙で、選挙有資格者は、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子で約40万人、総人口4000万人の1%程度で、それも記名投票だった。当選者は大同倶楽部55、立憲改進党46、愛国公党35、九州同志連合会21、自由党17.代議士の多くは大地主だった。現在の国政選挙とは大きく異なり、民意を反映するものではなく、その権限も制約されたものだった。

1891年(明治24年)

第一高等中学校の嘱託・内村鑑三が教育勅語に対し拝礼を拒否する事件が起った(1/9)。元太政大臣で初代内大臣の三条実美が、2/18死去し、後任に侍従長の徳大寺実則が任命された(2/21)。中江兆民は、議会の弱腰を批判して衆議院議員の辞表を提出、本会議はこれを承認した(2/27)。衆議院の予算削減権をめぐり、民党と政府が衝突。大成会が歳出費目の廃除削減は議会の確定以前に政府の同意を要するとの動議を提出、自由党土佐派が賛成に回った為可決、政府予算案が可決された(3/2)。度量衡法(尺貫法)が公布された(3/24)。総理大臣・山県有朋は、第一議会終了を機に、辞表を提出した(4/1)。松方正義が首相兼蔵相に任命され、第一次松方内閣が成立した(5/6)。来日中のロシア皇太子が、大津で巡査・津田三蔵に切りつけられ負傷した(5/11)。大津事件で政府は皇室に対する罪を適用する方針をまとめたが、大審院長・児島惟謙はこれを採用せず、無期徒刑の判決をした(5/27)。濃尾大地震。全壊焼失家屋14万2000戸を数え、死者7200人を出す(10/28)陸軍省は、維新前後の国事殉難者1277人を靖国神社に合祀した(11/5)。代議士・田中正造は、足尾銅山の鉱毒事件について衆議院に質問を提出、政府に対策を迫った(12/18)。分裂した自由党は、星亨の統率下に団結を回復、第二議会では改進党と提携、政府提案の軍事予算をことごとく否決したので、第一次松方内閣は議会を解散した(12/25)。大隈重信は、11/12枢密顧問を免官となり、立憲改進党に入党、代議士總会長に就任した(12/28)。

「感想」

明治22年に憲法が制定され、明治23年に衆議院選挙が行われたので、曲がりなりにも議員を通じての発言が可能になった。田中正造による足尾鉱毒事件の問題提起、大津事件に関連して、司法権の独立を守った児島惟謙、政府の軍事予算についての議会の抵抗など、特筆できる。内村鑑三、中江兆民の批判精神も注目すべきことと思う。

1892年(明治25年)

政府は予戒令を緊急勅令で公布、壮士の集会立入りを禁止する権限が地方長官に与えられた(1/28)。内務省警保局は自由、改進両党連合による議員候補の推薦は、集会および政社法違反だと板垣退助や大隈重信を告発した(2/9)。内閣は高知県下に保安条例の一部を適用することを公布した(2/9)。選挙干渉にも拘わらず、選挙で自由党94人、改進党38人が当選し吏党を圧倒した(2/15)。選挙の大干渉に対し、民党だけでなく枢密院や貴族院などから批判が強く、伊藤枢密院議長は官憲の処分を主張して辞表を提出した(2/23)。久米邦武が「神道は祭天の古俗」と題する論文を「史海」に転載、神道家を中心に非難の声が高まり帝国大学を辞職(2月)。選挙干渉の責任をとり品川弥二郎内相は辞職し、後任に副島種臣が就任した(3/11)。衆議院は選挙干渉問責決議案を可決したので、政府は7日間の停会で報復した(5/14)。政府は在京の壮士143人に、保安条例を適用し退去を命令した(5/21)。貴族院は、村田保議員の民法、商法施行延期法案を巡り大論争となり、可決された(5/28)。衆議院は予算案を修正して軍艦建造費などを削減して可決した(5/31)。貴族院は衆議院が削減した予算に対し、復活修正して衆議院に回付してきた(6/6)。衆議院は削減した予算を貴族院が復活するのは不法だと議決した(6/9)。衆議院も同様に、民法、商法施行延期を決議した(6/10)。貴族院は予算の復活修正は合法だと決議し、この問題について勅裁を求める上奏案を可決した(6/11)。天皇は貴族院の上奏を枢密院に諮詢して、憲法上予算に対する協賛権に両院の差はないと勅裁、両院協議会で妥協案を作成、両院で議決した(6/14)。松方内閣は、7/14河野敏鎌を内務大臣に任命。河野内相が選挙大干渉の善後処理として、福岡県知事安場安和らを更迭したが、陸相高島鞆之助、海相樺山資紀が反対して辞表を提出した(7/24)。松方首相は閣内不統一を理由に辞表を提出した(7/30)。伊藤博文が山県ら大物を平大臣に並べる超大型内閣を組織した(8/8)。西園寺公望を委員長とする民法、商法施行取調委員12名が任命された(10/7)。黒岩涙香が新聞「万朝報」を創刊した(11/1)。大井憲太郎が東洋自由党を結成した(11/6)。大井憲太郎らは貧民労働者保護と向上を目指す日本労働協会を組織した(11月)。軍艦千島が愛媛沖で英船ラヴェンナと衝突沈没、乗組員70人余が溺死した(11/25)。横須賀海軍造船廠の職工、東京市内左官職、東京府下の大工、甲府の製糸場矢島組の女工などが賃上げなどを要求して同盟罷業。岐阜県下では農民騒擾が頻発した。

「感想」

前年の衆議院の解散に伴い、2/15に選挙が行われたが、内務省警保局などにより、選挙の大干渉が行われ民党だけでなく、枢密院、貴族院などでも問題視された。政府予算に対し、衆議院と貴族院での判断が分かれ、決定権がどちらにあるのか論争になったが、勅裁により、同等の権利を有するとなり、両院協議して決定された。選挙の大干渉に伴い、松方首相は閣内不統一を理由に辞職、後任に伊藤博文がなり、山県有朋などを閣内に入れた大物からなる内閣を組閣した。軍事費に対し、衆議院と軍の対立が生じているのが伺える。相変わらず、同盟罷業、農民騒擾が頻発している。