1885年(明治18年)

武相困民党が負債全免、小作料引き下げを要求して立ち上がり、神奈川県庁をめがけたが警官隊に阻止された(1/4)。古河市兵衛(1832~1903、京都の商人の出、古河財閥の創始者)が政府より、足尾銅山、阿内鉱山、阿仁鉱山の払い下げを受けた(1/20、4/14)。静岡県金沢村ほかの農民が、借金党を組織して銀行、金貸しなどを襲ったが弾圧された(2/2~4)。万国郵便為替約定に加入調印した(3/21)。伊藤博文全権大使が、李鴻章天津条約に調印した(4/18)。甲府の製糸工場で工場支配人の差別待遇に抗議して、女工が怠業を行った(8月)。違警罪即決例が定まった。これが警察の横暴を許すことになり、社会運動の弾圧にもっぱら用いられた(9/24)。郵便汽船三菱と共同運輸が合併して日本郵船会社が設立された(10/1)。大井憲太郎らの朝鮮でのクーデター計画が発覚して逮捕された(11/23)。高島炭坑の坑夫賃金格差につき紛議がおこった(11月)。太政官制を廃し、内閣制度を定めた。その際軍の統帥権独立を明確に法文化した(12/22)。第一次伊藤内閣が成立した(12/22)。

「感想」

自由党の活動の影響を受けて、全国各地の農民、炭鉱夫、製糸工場の女工等の騒擾、怠業などが起きたがそれぞれ弾圧された。明治17年に朝鮮の京城で起きた甲申事変に関連し、清国との間で両国の朝鮮への関与についての天津条約を締結した。政府から銅山の払い下げ、政府援助のもとで日本郵船会社の発足など将来の古河財閥、三菱財閥が展開するもとを築いている。維新以来続いていた太政官制を廃し、内閣制度に変え第一次伊藤内閣が発足したが、構成を見ると、殆ど長州、薩摩出身者で構成されている。

1886年(明治19年)

帝国大学令によって東京大学は帝国大学に改組され、法、文、理、医、工の各分科大学により構成された(3/2)。師範学校令小学校令中学校令が公布された。(4/10)。東京左官壁職業組合が結成された(4/10)。井上馨外務大臣が不平等な条約改正交渉をはじめた(5/1)。教科用図書検定条例を定めた(検定制度の確立)。甲府の雨宮製糸場の女工が賃金引下げなどに反対して同盟罷業を行った(6/12)。静岡県自由党員ら、箱根離宮落成式襲撃計画が発覚し逮捕された(6/1)。東京電燈会社が開業した(7/5)。長崎に上陸の清国水兵が暴行し逮捕された(8/13、8/15)。英船ノルマントン号が紀州沖で沈没、イギリス人乗務員はすべて救助されたが、日本人乗客23名が水死し問題化した(10/24)。旧自由党員らが、全国有志大懇談会を開いた(10/24)。矢島楫子らが東京婦人矯風会の発会式を行った(12/6)。この年婦女子の集会がぞくぞく登場し、東京産婆会、各地婦人禁酒会、各地婦人交際会など全国で22種にものぼった。フランスで建造した3650トンの軍艦畝傍が、日本回送中の12月2日、シンガポールを出航した旨の電報があったまま、行方不明となり、問題化したが沈没と推定された(12月)。

「感想」

この年に、その後の教育の根幹をなす、小学校から帝国大学までの諸制度、教育目的、方針などが制定された。旧制高校のスタートとなる、高等中学校もこの年に制定されている。通して言えることは、国家の目的に沿った有用な人材の育成が図られている。労働運動、婦人運動の動きが出ている。

1887年(明治20年)

所得税法が公布された(3/23)。条約改正会議で裁判管轄条約案が決定された(4/22)。私設鉄道条例が制定された(5/18)。司法省法律顧問
ボアソナードが、政府に裁判管轄条約案反対意見書を提出した(6/1)。伊藤首相らが憲法草案の検討をはじめた(6/1)。農商務相谷干城が裁判管轄条約案反対意見書を伊藤首相に提出、内閣が紛糾した(7/3)。井上馨外相は、各国公使に、法典編纂の完成まで条約会議を無期延期すると通告した(7/29)。官吏服務紀律を改正し、天皇と政府への忠順勤勉を主とする旨の規定を新設した(7/30)。条約改正案反対運動がおこった(8月)。伊藤主相は地方長官を招集して、憲法の天皇親裁に異議を唱える者を弾圧し、外交を人民の公議により決しようとする説を抑えて、帝王主権の方向に人民を導くように訓示した(9/28)。宮内省が沖縄県尋常師範学校へ天皇・皇后の御真影を下付した。以後、区県立学校に次々と下付された(9/1)。後藤象二郎の呼びかけで大同団結して、きたる23年の国会選挙には立派な代議士を選び、議会政治を実現させるという運動が始まった。しかし、12月に公布の保安条例による弾圧により腰砕けになった(10/3)。文部省は東京商業学校を高等商業学校に、訓盲唖院を東京盲唖学校と改称、図画取調掛を東京美術学校、音楽取調掛を東京音楽学校と改編、改称した(10/5)。片岡健吉らが三大事件建白書元老院に提出するため上京した。言論集会の自由、地租軽減、外交政策の刷新を要求するものだった(10/22)。警視庁が屋外集会等を認可制とした(11/10)。二府十八県の代表が元老院に三大事件建白の実行を要求した(12/15)。政府は公安条例を公布し、片岡健吉、星亨、中江兆民ら570名を皇居三里以外への退去を命じた。この条例は、以後、秘密結社、集会の禁止、屋外の集会運動の制限など、社会運動弾圧の武器となった(12/26)。

「感想」

井上外相の進めた条約改正について、反対運動が巻き上がり、井上外相の辞任に追い込んだ。伊藤首相は、密かに天皇の絶対主権に基ずく憲法草案の検討をはじめ、憲法の天皇親裁に異議を唱える者を弾圧するように指示した。一度封じ込められた自由民権運動が、条約改正反対運動が成功したのに絡み、息を吹き返したが、公安条例の制定により弾圧され、急速にしぼんだ。

1888年(明治21年)

山陽鉄道会社の設立が許可された(1/4)。文部省は紀元節歌を学校唱歌として府県ならびに直轄学校に送付し、以後、紀元、天長節に学校で祝賀式典を挙行するよう内命した(2/3)。内務省はサンフランシスコの日本人愛国者同盟の機関紙「新日本」を治安を妨害するものとして、発売頒布を禁止した(2/6)。市制・町村制が公布され、地方制度の官僚的支配体制が確立された(4/25)。天皇の諮詢にこたえ、重要な国務を審議する機関として枢密院がおかれた。憲法の番人と称して議会の発達をはばみ、藩閥官僚の根城として天皇大権の防衛擁護の役割を果たし、時にはその地位を利用して内閣の施政を左右することもあった(4/30)。師団、陸軍参謀本部、海軍参謀本部が設置された。皇族大中将から任命された参軍が全軍の参謀長となり、その下に陸、海軍参謀本部をおき、軍隊の天皇直隷を強化した(5/14)。紡績連合会が綿花輸入関税免除の請願を行った(6月)。大阪の内外用達会社製靴工場の靴工が制服・制帽代としての積立金の減額、賃金引上げを要求して同盟罷業を行った(7/11)。枢密院議長伊藤博文は枢密院で問題となった憲法草案の再検討を指示した(7/21)。農商務相・井上馨の発意により、野村靖、渋沢栄一らが自治政研究会を組織し、鹿鳴館において19日より翌年3月8日まで、10回のモッセの講演会を開催した(10/5)。大隈外相が新通商条約案を各国公使に通告した(11/26)。メキシコと修好通商条約を締結した。これは初めての相互対等主義の条約だった(11/30)。陸軍中将枢密院顧問官の鳥尾小弥太は外遊より帰国するや、反欧化主義の立場から保守党中正派立党大意を発表して、陸相より軍律違反とされた(11月)。文部省は直轄学校に対し、学生生徒の活力検査(健康検査)を毎年4月に行うようにと訓令した(12/28)。

「感想」

天皇の権威を高め、すべて天皇の名の下に中央集権化し、天皇を中心に統治するための明治憲法の草案づくりが伊藤博文の主導の下に、密かに進められた。初めてメキシコと対等な修好通商条約を締結できたのは特記できる。