1881年(明治14年)

頭山満(1855〜1944、福岡藩士族、萩の乱で一時入獄、民権運動から国家主義に、右翼の草分け的存在)ら、福岡に玄洋社を設立した(2月)。憲兵条例を制定した(3/11)。参議大隈重信、国会開設意見書を左大臣・有栖川宮熾仁(1835〜95、尊王攘夷運動を支持、戊辰戦争では東征大総督となり、官軍を率いて江戸に入った。1877年の西南戦争には征討総督として出征。のちに参謀本部長など、陸軍大将)に提出した。それがもとで伊藤博文山県有朋と対立、10/11の御前会議で参議を罷免された(3月)。群馬県榛名山麓の農民3万名がが騒擾(3/5)。西園寺公望(1849〜1940、孝明天皇に近侍、戊辰戦争で北陸、会津戦などに参加、1871〜80フランスに留学、伊藤の立憲政友会創立に尽力、第代政友会総裁となる、内閣総理大臣を二回勤め、その後元老となる)中江兆民(1847〜1901、土佐藩の足軽の子、藩校に学び、藩の留学生として長崎、江戸でフランス学を学ぶ。1871〜74、司法省から派遣されフランス留学、1877年に元老院権少書記官を辞してからは官につかず、終始、西欧の近代民主主義思想を伝え明治の藩閥専制政治を批判した)らと「東洋自由新聞」を創刊、フランス流の自由民権論を唱え藩閥政府の専制政治を攻撃した。政府は天皇の内勅により廃刊(4/30)させた(3/18)。前年の伊藤博文、大隈重信の建議にもとづき農商務省が設置された(4/7)。文部省は小学校教則綱領を定め、小学校を初等、中等、高等の三科に区分し、教科は修身を重視し、歴史教育は日本歴史のみとした(5/4)。文部省は小学校教員心得を定め、国家主義的教育を行う教員としての、本分を明確にして、全国の教員に下付した(6/18)。北海道開拓使長官・黒田清隆(1840〜1900、薩摩藩士、薩英戦争に参加、戊辰戦争には参謀として従軍、函館五稜郭攻撃を指揮。1874年、陸軍中将兼参議、北海道開拓長官に就任。1888年内閣総理大臣)開拓使官有物を同郷の五代友厚(1835〜85、薩摩藩士、薩英戦争に参加。1865藩命により留学生を引率してヨーロッパを視察、薩摩藩の産業振興に寄与。1869官を辞し実業界で功績)らの関西貿易商会への払い下げを太政大臣に申請7月末に天皇の裁可を得た(7/21)しかし、藩閥と政商の結託による不当に安い払い下げとの反対運動が起きた。植木枝盛が日本国国憲案を起草した(8月)。開拓使官有物払下げの不明朗を批判した「東京日日新聞」ほか府下の9紙・誌、地方紙など相次いで発行停止処分をうけた(8月〜9月)。御前会議で、立憲政体に関する方針、開拓使官有物払下げ中止、大隈参議の罷免などを決定した。このクーデターにより、薩長藩閥の覇権が確立、明治憲法体制への第一歩が踏み出された(10/11)。前日の御前会議で、プロシア流の欽定憲法を制定して、10年後の明治23年を期して国会を開設するとの詔書を出した(10/12)。板垣退助ら自由党を結成した(10/18)。松方正義(1835〜1924、薩摩藩士、1866軍艦掛として軍備強化に努む、1880内務卿、1881参議兼大蔵卿、その後二度内閣総理大臣)が参議兼大蔵卿に任命された(10/21)。
植木枝盛、酒税増税に反対し、酒屋会議を開く旨の檄文を発表した(11/1)。

「感想」

国会の早期開設を主張していた大隈参議が、岩倉具視右大臣、伊藤博文参議の共謀による反大隈のクーデターで失脚させられた。これにより、薩長藩閥政治が確立、後の、天皇主権、二院制、陸海軍は天皇が統帥するなどの明治憲法の基本方針が決まった。植木枝盛が日本国憲法草案を発表したが、民主主義思想を盛り込んだ斬新なもので注目すべきことと思う。

1882年(明治15年)

軍人勅諭が陸軍卿・大山巌(1842〜1916、薩摩藩出身、西郷隆盛の従弟、戊辰戦争に参加、新陸軍では1870に欧州に派遣される。1871−11〜1874−10までフランスに留学。日露戦争では満州軍総司令官。陸軍元帥)に下された(1/4)。条約改正の第1回各国連合予議会が、井上外務卿を議長として開催された(1/15)。参議伊藤博文は、勅書によって、憲法調査のための欧州出張を命ぜられた。3/14出発、8/3帰国(3/3)。福地源一郎らが立憲帝政党を組織した(3/18)。立憲改進党が結党式を挙行、大隈重信が総理となった(4/6)。自由民権を訴えて遊説中の自由党総理・板垣退助(1837〜1919、土佐藩士、戊辰戦争では土佐藩兵を率い参戦。1871政府参議となるが、1873征韓論に破れ、西郷らと共に下野。1882−11〜1883−6欧州視察)岐阜で愛知県士族相原尚聚に襲われ負傷した(4/6)。樽井藤吉(1850〜1922、大和国生まれ、1892衆議院議員に当選、日韓併合に導く「大東合邦論」を著す)東洋社会党を結成したが、7/7官憲により解散させられた(5/25)。京城で朝鮮が反乱を起こし、日本公使館を攻撃した。(壬午事変)(7/23)。戒厳令が定められた(8/5)。海軍省兵器局兵器製造所は、日本最初のルツボ製鋼を開始、12月ルツボ鋼の国産化に成功した。奥宮健之(1857〜1911、土佐国生まれ、自由党に入党、後に幸徳秋水らの平民社と関係、大逆事件に連座、死刑に)人力車夫懇親会を結成、車会党を結成した。翌年9/24に結社禁止になった
(10/4)。日本銀行が営業を開始した(10/10)。大隈重信、小野梓らが東京専門学校(現在の早稲田大学)を開校した(10/21)。高島炭坑の抗夫が前借金の割引を要求して騒擾を起こした(10/26)。宮中に地方長官を集め、軍備の拡張と、そのための租税増徴についての勅語が下された(11/24)。福島県の農民数千人が、道路事業中止の総代逮捕に抗議して、警官と衝突した(福島事件)(11/28)。福島県自由党幹部河野広中(1849〜1923、三春藩(福島県)の郷士の出、自由民権運動に入る、後に衆議院議員連続14回当選、大隈内閣の農商務大臣、衆議院議長)らが逮捕された(12/1)。天皇が「幼学綱要」を地方長官らに下付した。内容は、孝行、忠節、和順など20徳目を選び、和漢の歴史事例を引用しながら、儒教的立場から平易に国民道徳を説いている。後の教育勅語の先駆である(12/3)。

「感想」

軍人勅諭により、天皇の絶対的な軍事指揮権が明記され、兵士の天皇に対する絶対服従、天皇以外の軍事への介入の拒否は、将来、天皇の名の下に軍部が独走する要因を作ったものと思う。一方、国会開設運動と並行して、自由党、立憲改進党が設立され、自由民権運動も活発化したが、官憲による抑圧も見られる。天皇の名の下に、「幼学綱要」が下付され、平易に国民道徳を国民に示しているが、注目すべきことと思う。ここまで、明治維新後の歴史を見てきて、明治政府に「人民の、人民による、人民の為の」政治という思想が見られず、「天皇の、天皇による、天皇の為の」政治というたてまえで、民衆は支配、抑圧の対象になり、富国強兵、文明開化、藩閥政治による特権階級の出現による腐敗が見られるのは残念である。

1883年(明治16年)

三菱に対抗する為、農商務大輔・品川弥二郎(1843〜1900、長州藩士、松下村塾に学ぶ、のちイギリス、ドイツに留学)らの援助の下に、渋沢栄一
益田孝らが半官半民の共同運輸会社を設立した(1/1)。北陸地方の自由党員26名が、密偵の密告により大臣暗殺、内乱陰謀容疑で逮捕された。のち証拠不充分で釈放された(高田事件)(3/20)。陸軍大学校が開校された(4/12)。修業年限3年。ヨーロッパの軍事視察をした桂太郎(1847〜1913、長州藩出身、明治時代の軍人、のち3回内閣総理大臣)の進言により、陸軍卿・大山巌は普仏戦争に勝利したプロシアから教師を招くことにした。その為、陸軍士官学校はフランス人教師、大学校はプロシア教師という異常な系列になった。新聞紙条例が改正され、言論取締りが強化された(4/16)。国立銀行条例が改められ、日銀券に統一のため各国立銀行発行紙幣の消却の命令が出された(5/5)。出版条例を改正して、発行10日前の内容の届出の義務を課し、罰則を強化した(6/29)。国家の公告機関紙・官報第1号が発行された(7/2)。大阪紡績会社は、英国から輸入のミュール紡績機を据え付け、操業を開始し、8/1からは夜間作業を行った(7/5)。文部省は、小学校、中学校、師範学校等の教科書採択の際、あらかじめ文部省の認可を必要とする旨指示した。日照り続きの為、和歌山県ほかで水騒動が続発した(8/16)。三池炭坑の囚人労働者が大暴動を起こした(9/21)。高島炭坑抗夫が減給に反対して暴動を起こした(9/24)。石川県の農民が利子低減,負債金の年賦払いを要求して騒動となった(11/9〜30)。井上馨(1865〜1915、長州藩士、幕末の志士、伊藤博文、山県有朋、と共に明治の3元老として政界に君臨)は、外務卿になるや、条約改正を促進する為、日本の風俗、習慣の欧化をはかり、上流社会の社交場として鹿鳴館を造らせ、開館式を行った(11/28)徴兵令が改正された(12/28)。

「感想」

いわゆる富国強兵策が、政治目的で、一般民衆の民権運動、言論の自由は抑圧、、官僚主導の薩長の藩閥による専制政治が行はれている。陸軍は、山県有朋、桂太郎など長州閥が主導し、この年に普仏戦争に勝利した、プロシアから陸軍大学に教師を招いているのは注目すべきことと思う。後の、日、独、伊の三国同盟につながる、ドイツ軍への高い評価の芽が生じたのかも知れない。産業経済の施策は、曲がりなりにも進捗している。悲願の不平等条約改定の折衝のため、欧化の実績を見せる為、鹿鳴館など建設したのはやや軽薄と思う。

1884(明治17年)

福島県の数ケ村の農民約2000人が負債の減免、延納を求め屯集した(1/17)。この年全国各地で負債返弁を中心とする農民騒擾は167件に達し、明治期の農民騒擾のピークをなした。地租改正条例を廃止して地租条例を定めた。ここに天皇制国家の地租徴収体系が確立、以後根本的な規定はほとんど変更されていない(3/15)。政府は、憲法調査のためドイツに渡った伊藤博文を長官に任命、制度取調局を宮中におき、憲法起草及び皇室典範草案に着手した。井上毅(1843〜95、熊本藩の出身、1871司法省に入り、翌年渡欧調査団の一員としてフランス、ドイツの法制を調査、明治前期の官僚)、、金子堅太郎(1853〜1942、福岡藩出身、1871渡米、1878ハーバード大学法律科卒業、伊藤博文の知遇を得る、のち農商務相、司法相)伊東巳代治(1857から934、長崎生まれ、英語を学び上京、伊藤博文の知遇を得て工部省に入る。のちに、農商務大臣、山県有朋系の官僚政治家)らが参画した(3/17)。東京高等商業学校(のち一橋大学)が設置された(3/26)。学習院が宮内庁所管の官立学校となった(4/17)。政府は自由民権運動弾圧の為、府知事、県令の執行権の強化をはかり、戸長も任命制にした(5/7)。群馬県の自由党員湯浅理兵らが農民数千名と高利貸、警察署などを襲撃した(群馬事件)(5/13)。兌換銀行券条例を定めた(5/26)。日本鉄道上野・高崎間開通式が行われた(6/25)。華族令が制定された(7/7)。茨木、福島の自由党員ら16人が警官と交戦した
(加波山事件)(9/23〜6)。自由党大会が大阪で開催され自由党解党を決議した(10/29)。埼玉県秩父地方の農民数千人が自由党員の指導の下に激化、事件を起こした(秩父事件)(10/31〜11/11)。京城で親日派がクーデターをおこしたが失敗した(甲申事変)(12/4)。立憲政体樹立を企図した飯田事件が起きた(12/6)。名古屋地方の自由党員、挙兵資金のために強盗殺人容疑で逮捕された(名古屋事件)(12/15)。

「感想」

自由党の自由民権思想、活動と政府の圧制に対する不満からの騒擾が全国的に発生し、官憲は軍隊も出動して鎮圧、結果は悲惨なものだった。活動の過激化と、政府の弾圧から自由党は解体することになったが、ここの活動家の活動は残った。伊藤博文がリーダーとなり、明治憲法及び皇室典範の草案の作成に着手したが、政府を支配していた薩長閥の思想、薩長のリーダーとのコネで登用された維新官僚の影響を大きく受けるものになるのは当然である。