1877年(明治10年)

地租を減ずる詔書が出された(1/4)。西郷隆盛が鹿児島県士族を率いて反乱をおこした。9/24切腹(50才)(1/30〜9/24)。政府、太政官達をもって、人民に兵役を忌避せぬように説諭するように布達した(2/1)。この年、西南戦争を契機とする熊本県下の農民騒擾が31件に及んだ。東京開成学校と東京医学校とを合併、東京大学が開校された(4/12)。佐野常民
(元佐賀藩士、1822〜1902)らが、西南戦争の負傷者の救療の為博愛社を創立した(明治19年日本赤十字社となる)(5/1)。内閣顧問木戸孝允死亡(44歳)(5/26)。政府は立志社(自由民権運動の指導的結社。1874板垣退助、片岡健吉、林有造らが高知に結成)総代・片岡健吉(元土佐藩士、1843〜1903、自由民権家)の国会開設建白書を却下した。この建白書は民権の伸長を第一義に、国権の拡張を第二義のものと宣言して画期的なものだった(6/12)。横須賀造船所で日本人のみの手で、最初の軍艦清輝(897トン)を竣工した(6/22)。西南戦争の勃発に呼応して、高知の立志社でも挙兵の計画があったが、政府により関係者が捕縛された(高知の大獄)。大久保利通の建議により、第1回内国勧業博覧会が上野公園内で開催された(8/21〜11/30)。天皇を常時補導する侍補の官を設置する太政官達が出された(9/6)。

「感想」

西郷隆盛が反乱を起こし、鎮圧された。戊辰戦争に功労のあった士族が、維新後働く場を失い、不満が募っているのは理解できるが、大局観のあるリーダーなら、その不満を抑え、それを越えた指針を示すべきだろうが、西郷隆盛にはそのようなビジョンはなかったのだろう。高潔な武士で、周囲から慕われる人柄だったのだろうが彼の限界が見える。軍人として、政治力のある人材と思われるが、海外視察経験がない弱点も見える。片岡健吉の国会開設建白書の提出、佐野常民らの博愛社の設立など、新しい動きも出てきた。両氏とも、海外視察の経験があり、この時代その経験の有無が、その行動に大きな影響を与えていると思う。

1878年(明治11年)

外務卿・寺島宗則
(1832〜93、元薩摩藩医、幕府の蛮書取調所に出仕、海外視察に随行)関税自主権回復を目的とする条約改定方針を決定した(2/7)。朝鮮沿岸の測量に軍艦が出動した(3/4)。内務卿・伊藤博文、大倉卿・大隈重信の示唆をうけ、渋沢栄一(1840〜1931、近代日本資本主義の指導者、武蔵の豪農の生まれ、一橋家に仕え幕臣となる。遣欧の使節として海外を見聞)、益田孝(1848〜1938、佐渡の地役人の生まれ、幕府の使節団の通訳として渡欧、三井物産の育ての親、三井財閥の形成者)らの主導で東京商工会議所が設置された(3/12)。全国主要都市に電信網が整い、東京木挽町に工部省中央電信局が設置された(3/25)。起業公債発行条例を制定し、起業基金を新設した。国内公募の最初の公債(5/1)。参議兼内務卿・大久保利通が暗殺された(48才)(5/14)。「朝野新聞」は大久保利通・殺害の島田一郎らの斬姦状を掲げた為7日間の発行停止を命じられた(5/15)。郡区市町村編成法など三新法が定まった(7/22)。高島炭鉱夫多数が賃上げを要求して就業を拒否、暴動化した(7/27〜28)。近衛砲兵ら、俸給削減などの不満により暴動を起こした(竹橋騒動)(8/23〜24)。愛国社再興大会が大阪で開催された(9/11)。山県有朋(1838〜1922、長州藩の出、明治・大正期の政治家、元老、陸軍元帥)、軍人訓誡を中隊に頒布した(10/12)。参謀本部条例を制定した。統帥権独立の発端である(12/5)。監軍本部条例を制定し、軍令の企画にあたる参謀本部と執行にあたる監軍部とを区別した(12/13)。

「感想」

東京商工会議所の設置、起業基金の設置など商工業の発展の為の施策が動いている。ハードとして、電信網も展開された。新政策の実施に対し、民衆、旧士族らの不満、抵抗運動も頻発、大久保利通の暗殺、高島炭鉱での暴動などもおきた。近衛砲兵らの反乱など起き、軍の制度が整備され、軍の統帥権が独立する方向になったのは、将来の軍の暴走に道を開くことになったのではないか?言論の自由は抑圧されている。

1879年(明治12年)

文部省学監・アメリカ人マーレーの建議で、文部大臣管理下に教育の討議、学術技芸の評論を目的とする東京学士会院が設置された(1/15)。府県会規則により議員選挙が行われ、最初の東京府会が開会した(3/20)。愛国社第2回大会が大阪で開催され、2府21県の代表80余人が集合した(3/27)。松山にコレラ発生して全国に蔓延した。コレラの消毒,避病院設置、患者隔離に反対する農民の騒擾事件が頻発した(3/14〜)。琉球藩が廃されて、沖縄県となった(4/4)。全国的に政談演説が盛んに行われるようになり、これに対し政府は、官吏の職務外の政談演説を禁止した(5/10)。東京招魂社を別格官幣社とし、靖国神社と改称し、内務、陸軍、海軍三省の管理下においた(6/4)。太政官布告により学制が廃され教育令が定められた。集権的画一主義の学制にから、小学校の設置、管理を町村にまかせ、地方の実情に即した教育ができるようにして、教育の普及を図った(9/29)。陸軍職制を定め、陸軍の天皇への直隷、陸軍省、参謀本部、監軍本部以下の陸軍全体の機関が整理され、職務、権限などが規定された(10/10)。徴兵制を改定、免役範囲を縮小、陸軍・海軍を分離して海軍徴兵を別に定めた(10/27)。植木枝盛
(1857〜92、土佐藩士の子、自由民権論者、1881に民主主義に徹底した日本国国憲按を起草)の高知立志社での演説が集会条例に触れるとされ、以後、同趣旨の演説が禁止された(11/5)。愛国社第3回大会が大阪で開催され、国会開設請願運動を中心スローガンにすることが決まった(11/7)。箱田六輔(1850〜88、福岡藩士、自由民権家後に玄洋社の社長)、頭山満(1855〜1944、福岡藩士の子、当初は自由民権運動に投じ、後に玄洋社に加わり、国家主義、大アジヤ主義に転じ、多くの国家主義者を育てた)ら筑前共愛社を結成、国会開設請願運動に加わった(12/8)。太政官は、各参議に、立憲政体についての意見書の提出を命じた。(12月〜)。

「感想」

府県会規則により地方議会が発足した。靖国神社が発足した。教育制度も、地方の実体に応じた教育が行われることになった。自由民権運動も活発化したが、規制も次第に行われるようになった。植木枝盛の民主主義的な演説が禁止された。軍関係の組織、職制が整備され、靖国神社が開設された。中央集権、天皇中心の国家主義と、民主的な自由民権運動との路線の対立が激しくなった。

1880年(明治13年)

安田銀行が開業された(1/1)。横浜正金銀行が開業した(2/28)。愛国社第4回大会が開催され、国会期成同盟の結成を決議した(3/15)。三菱為替店(後の三菱銀行9が開業した(4/1)。政府は、自由民権運動の高まりに対処して、政治集会及び政治結社の取締りを目的とする集会条例を制定した(4/5)。片岡健吉、河野広中
(1849〜1923、福島県三春藩の郷士の家に生まれる、明治、大正期の自由民権運動家)国会開設請願書を提出したが、元老院、太政官はともに受理を拒否した(4/17)。小崎弘道(1856〜1938、熊本藩士の子として生まれる、明治、大正期の指導的きりスト教牧師)らが東京基督教青年会を結成した(5月)。外務卿・井上馨、条約改正案を各国公使に交付した(7/6)。刑法、治罪法=刑事訴訟法が交付された(7/17)。酒造税則が定められた(9/27)。福岡県で螟虫駆除のための稲株堀取の強制労働に反対して農民騒擾が起きた(10/21)。高島炭坑抗夫、賃上げを要求し、拒絶され暴動(11/4)。地方税規則を改正した(11/5)。官営工場の払い下げ概則を定めた(11/5)。国会期成同盟大回大会が開催され、大日本国会期成有志公会と改称、次回は憲法見込案の持参とした(11/10)。沼間守一(1843〜1890、幕臣、後に民権家、政治家)を座長として、自由党結成4ケ条を定めた(12/15)。教育の現状適応主義をうちだした教育令を改正,かわって教育の国家統制を強化し、国家の教育基準を明示した(12/28)。元老院国憲取調委員は日本憲案を議長に提出、議長は天皇に上奏したが採択されなかった(12/28)。

「感想」

自由民権運動が高まり、国会開設運動が活発になった。一方、自由民権運動に対し、いろいろと規制を加える為集会条例が制定された。教育は、一旦、地方の実態に合わせるようにしていたが、方針を変更して、国家統制を強化する方向に転換された。官営工場の払い下げ概則が定められ、官営工場→民営化が開始された。中央集権化、富国強兵、国権の強化対自由民権運動の対立は緊張感を与えている。