1973年(明治6年)

五節
(奈良時代からの宮中行事)を廃止して国民の祝日は神武天皇即位日と天長節の両日に定めた(1/4)。徴兵令及び付録が定められ、4月から実施、漸次各鎮台に入営していた壮兵と交替させた。不公平もあり、徴兵反対一揆も頻発した(1/10)。キリシタン禁制の高札が除去された。岩倉視察団への抗議もあり捕縛されていた浦上キリシタンも放免された(2/24)。佐倉順天堂が東京湯島に病院を開いた。日本最初の近代的民間病院である(2/2)。美作(現在の岡山県北東部)で人民が徴兵令に反対して暴動をおこした(5/26~6/1)。その他、徴兵制反対の騒擾は、全国各地でおこった。紀井、筑前、豊後、伯耆、出雲、備後、讃岐、肥前、丹波、羽後など。横浜生絲改会社を設立,生絲粗製濫造の防止の為、生絲及び付属屑物検査を開始した(6/1)。初めて国家予算表がつくられた(6/9)。マリア・ルース号事件に関する、日本、ペルー約定が成立した(6/25)。地租改正条例が布告された(7/28)。西郷隆盛板垣退助江藤新平らは征韓論を主張していれられず辞職するに至った(10/25)。内務省が設置され、警察制度が整備された(10/10)。秩禄奉還の法が定められた(12/17)。

「感想」

天皇の権威を高める方策が進んだ。徴兵制により、失職する士族の不満を解消する為、西郷隆盛らが、征韓論を主張したが、欧米視察から帰国した、岩倉、大久保、木戸らに反対され辞職した。留守を預かっていたグループと欧米視察グループとの感情的対立もあったと推察される。まだまだ国内は不安定で、帰朝組みの内治優先すべしとの主張も分かる。徴兵制度に反対する一揆が各地におこり、弾圧されたが、詔勅の権威も磐石ではない。

1974年(明治7年)

東京警視庁が設置された(1/15)。副島、後藤、江藤、板垣ら8人が民選議院設立建白書を左院に提出した(1/17)。江藤新平らが佐賀の乱をおこしたが政府軍により鎮定された。江藤らは死刑に処せられた(2/1~2/18)。閣議、台湾征討を決定した(2/6)。福沢諭吉らが明六社を設立、明六雑誌を創刊、国民の文化的啓蒙をはかった(2月)。台湾に出兵した政府は、列強の妨害により、一旦中止を決めたが、台湾に対する領土的野心を捨てきれず、台湾征討を強行、征服した(5/2)。文部省は師範学校卒業生以外にも、検定試験で小学校教員の資格を得る方途を定めた(7/25)。酒田県で大規模な農民暴動がおこった(わっぱ騒動)(8/16~11/4)。文部省、医制を制定した(8/18)。イギリス留学を終えて帰朝した、小野梓
(1852~86、土佐生まれ、明治2年東京に出て昌平学校で学ぶ。1871から3年間、アメリカ、イギリスに留学、以後司法省、太政官、会計検査院に勤めたが1881年の政変で大隈と共に下野)、赤松連城(1841~1919、加賀国金沢在家の出身、1868山口県徳応寺の養子に、1872年本山から派遣されイギリスに留学)らは自由主義の啓蒙宣伝を目的に、共存同衆を結成、共存雑誌を創刊した(9/20)。清国駐在のイギリス公使の斡旋で、台湾問題について日清間で和議が成立、消極的だが、日本の琉球領有を認めさせ、台湾から撤兵した(10/31)。政府は国史編纂の為、各国各府県に、維新以来の沿革調査を命じた(11/10)。この年、徴兵制、地租改正、小学校維持費の負担増大などに反対して、日本各地で農民騒擾がおこった(21ヶ所)。

「感想」

征韓論に破れ、参議を辞した江藤新平が、不満士族を説得に、佐賀に戻ったが、逆に祭りあげられ反乱の兵をあげたが、鎮圧された。征韓論に破れ、不満の鹿児島の士族らをなだめる為にも、台湾出兵を強行して、琉球の帰属を清に認めさせた。維新後の、最初の海外出兵となる。新政府は、いろいろと新制度を制定しているが、反対も多く、国内の騒擾も頻発、政府内も意見の相違などによりまとまりを欠いている。自由、民権の運動の兆しが生じた。大久保主導による、佐賀の乱の鎮圧及び江藤への断罪は、士族身分の剥奪、斬首の上さらし首という苛酷なものだった。共に徳川幕府を倒した仲間、昨年まで参議として仕事を共にした仲間に対する仕打ちとして、冷酷さを感ずる。反政府はどんな立場の人でも許さないとの強い意志、同様な動きに対する見せしめ、危険人物は早期に取り除くとの思い、或いは憎しみもあったのかも知れない。政府が分裂して、反政府のグループとしての動きがあり、危機感があったのだろう。新政策に反対して、日本各地で農民の騒擾が頻発、武力で場合により軍隊も出動して鎮圧している。中国の天安門での民衆の騒擾を軍隊が出動して鎮圧したのを思い出させる。

(参考)明治維新と江藤新平

1975年(明治8年)

木戸孝允、大久保利通、板垣退助、政治改革について意見が一致して、木戸、板垣が参議に復帰した(2/11)。従来の雑税を廃し,酒類税則、車税規則などを定めた(2/20)。立志社が中心となり、各地方の自由民権政社が結集、日本最初の全国的政党である愛国社が結成された(2/22)。漸次立憲政体を立てるとの詔勅が発布された(4/14)。ロシアとの樺太、千島交換条約に調印した(5/7)。深川製作寮出張所において、初めてセメントが焼成された(5/19)。第1回地方官会議が東京浅草の東本願寺別院で議長木戸孝允のもとに開かれた(6/20)。讒謗律・新聞紙条例が制定された(6/28)。文部省は省内編纂教科書は搬例を示すにすぎないとして、民間における教科書の編纂刊行を奨励した(7/31)。「東京曙新聞」主筆の末広鉄腸
(1849~96、伊予国宇和島の生まれ、立憲政党政治の確立を説き、自由党、改進党の大同団結を図った)は新聞条例批判の記事、投書を記載した罪で罰せられた(8/7)。政府は三菱汽船会社を特別保護とした(9/15)。日本軍艦雲楊、江華島守兵と交戦、江華島事件がおこった(9/20)。京都で聾唖教育が始められた。

「感想」

立憲政体に移行する動きが出た。第1回の地方官会議が開催され、それを契機に従来の士族によるものと違う豪農層中心の民権運動が展開され始めた。政府を批判する言論の自由に対する抑圧の動きが出た。朝鮮に対し開国を迫り、軍艦による示威、江華島での衝突が生じた。セメントの製造開始、三菱汽船に対する援助による海運業の整備も開始された。


1976年(明治9年)


朝鮮国との修好条規に調印した。日本が外国に対し不平等条約を強制したもので、朝鮮で清国に対抗し、大陸進出の第一歩になった(2/26)。植木枝盛、「郵便報知新聞」への投書「猿人政府」の為、禁獄の宣告を受け5/13まで投獄された(3/16)。大蔵省、、初めて私立銀行の設立を許可し、三井銀行が設立された(3/31)。大礼服着用者、軍人、警察官以外の帯刀を禁ずる布令を出した(3/28)。和歌山県で農民騒擾が起き、大阪鎮台より派兵して鎮圧した(5/6~17)。地租改正にともなう地価算出について、各地で苦情が続出、事業が進展しないので、政府は地価を一方的に決定、収税を命ずる布告をだした(5/12)。政府は「国安」妨害の新聞、雑誌の発行を禁じ、「湖海新聞」「草奔雑誌」「評論新聞」が発行禁止になった(7/5)。国立銀行条例が改正された(8/1)。金禄公債証書発行条例が定められた(8/5)。元老院に国憲起草を命じた(9/6)。熊本県で保守的士族・神風連の乱が起きたが、鎮台兵に鎮圧された
(10/24~25)。同じく福岡県、秋月の乱、小倉鎮台兵により鎮圧された(10/27~11/3)。山口県、萩の乱、旧長州藩士・前原一誠(尊攘派志士・明治維新に功績、明治2年参議その後辞す)、を首領として蜂起したが広島鎮台兵により鎮圧された(10/28~11/5)。官営石川造船所が廃止され、民営平野造船所になった(10月)。茨城県真壁郡で農民一揆がおこった。宇都宮営兵からの出兵により鎮定した(11/30~12/6)。三重県飯野郡の農民が暴動を起こした。名古屋鎮台からの出兵で鎮圧した(12/19~23)。この年、全国で約26件の農民暴動の主要な原因は地租、地価改定をめぐるものだった。

「感想」

中央集権化の推進、徴兵制の実施による農民層の負担増大、失業する士族層の不満、軍備拡張などの費用増大に対して農民への税負担の増大に対し、士族、農民の騒擾が各地におき、軍隊の出動で鎮圧した。死刑を含む処刑者も多い。明治維新を推進した、長州、佐賀、薩摩などの士族層の不満が反乱になっている。我々のやってきたことは何だったのかとの思いもあると推察される。政府批判の言論は抑圧された。朝鮮に対し、武力をちらつかせ、強硬な姿勢で臨んでいる。国内の不満を海外へ目を向かせ、そらせる狙いもあるのかと思われる。