1869年(明治2年)

観音岬灯台に点火が行われた・洋式灯台の初めである。イギリスから職人を招き、器械を輸入して建設した(1/1)。新政府、諸藩、府県に小学校の設立を奨励した(2/5)。新聞紙印行条例を制定した(2/8)。外国官(外務省に相当)の下に、開港場などに通商司を設置、貿易、金融、商業を管理させた(2/22)。天皇は東京滞在中に太政官を東京に移すことを下達した(2/24)。飛騨・高山で梅村騒動(新政反対一揆)が起った(2/29)。東京姫路藩邸において公議所(議会)開院式が」行われた。各藩から選出された公議人270人前後で構成された(3/7)。出版条例が制定され、出版取調所g設置された(5/13)。五稜郭が開城し、戊辰戦争が終った(5/18)。諸藩の版籍奉還を許し、藩主を知藩事を任命した。先ず、薩、長、土、肥が版籍奉還、これをきっかけに各藩からなだれのように版籍奉還がなされた。公卿諸侯の称を廃して華族とした(6/17)。贋造二分金騒動が起った。流入の多い信州各地で一揆が発生した(7/2〜4)。政府は昌平学校を中心に開成、医学両学校を大学校分局として、これらを大学校と総称して高等教育と教育行政を掌管させた(7/8)。政府は官制の改革をはかり、神祗官、太政官、民部省、大蔵省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省の6省をおき、開拓使、集議院などを設置した(7/8)。富山県でばんどり騒動(世直し一揆)が起った(10/12〜11/3)。東京、横浜間の電信が開通した(12/25)。

「感想」

新政府は、教育の充実のため、小学校、大学校の設置、政府の行政組織の体制かためなど着々と実施している。洋式灯台の建設、東京、横浜間の電信の開通などハード面でも欧州からの技術導入に努めている。抵抗が大きく、遷都の布告も出さないが、天皇の東京への行幸により、事実上の東京遷都が行われた。藩主に、競わせるように版籍奉還させ、中央集権化を推し進める手法もなかなか巧みである。国内各地で一揆が頻発、民衆の不満も蓄積している。

1870年(明治3年)

神道による国民思想の統一、国家意識の高揚のため「大教宣布の詔勅」が発布された。キリスト教の排撃を目的とし、神道に国教的保護を与え、天皇の神格化と国民教化の推進をはかった(1/3)。長州藩の奇兵隊などの諸隊は、倒幕戦が終わり、常備軍に縮小されたが、失業した脱退兵が農民一揆と結合指導した。藩政府は当初は宥和策をとったが、2/11木戸孝允が藩兵を率い沈圧した(1/26)。高島炭鉱の日雇い人夫、賃下げに抗議して暴動をおこした(3/3)。日本最初の製靴工場を東京築地に設立した。輸入から自給に変えるためであった(3/15)。宇和島藩で農民暴動(野村騒動)がおきた(3/20〜4/3)。本木昌造がはじめて活版活字を製造した(3月)。前橋藩がイタリア式器械製糸を開始した(6月)民部省と大蔵省が分離された(7/10)。アヘンの取締りを強化、販売首謀者は斬、きつえん者は刑一年に処する布告を出した(8/9)。岩崎弥太郎が、10/9土佐開成社を設立、同19日に99商会と改称、運輸業を開始した。日田県(大分)で農民騒擾がおこった(11/17〜21)。松代藩で農民数千人が暴動をおこした(11/25〜27)。「横浜毎日新聞」が創刊された(12/8)。中野県(長野)の農民、数万人、世直しを求め蜂起した(12/17〜21)。

「感想」

全国各地で農民騒擾などが頻発、新政府による統治が不安定な状況にある。天皇の神格化を進め、天皇を中心に国民意識の高揚をはかることが進められた。製靴工場の設立、活版印刷の開始など、ハード面での取り組みも進められている。中央集権化を急速に進めようとする、大隈重信、木戸孝允、伊藤博文らと、「西南雄藩」との結びつきを重視し、改革を漸進的に進めようとする大久保利通、副島種臣らのグループの対立も生じた。

1871年(明治4年)

政府は前島密(36才)の建議により、東京、京都、大阪間に郵便を開始、三地区に郵便役所を開設した(1/24)。山県有朋らの発意で鹿児島、山口、高知の3藩の兵約1万人をもって、天皇の護衛兵、親兵が編成された(2/13)。政府は貨幣制度の混乱を是正する為、金本位制を採用し、新貨条例を定めた。新貨は十進法により、円、銭、厘の呼称で、旧貨の一両を一円とした(5/10)。政府は神社はすべて国家が宗祠たることを宣し、神社の社格および神官の職制を定めた(5/14)。上海、長崎間に海底電線が敷設された(6/18)。西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信らが政府の中枢を固め、在京56藩知事を集め、天皇が廃藩置県の詔書を下した(7/14)。文部省が設置され、大学のもっていた教育行政の機能が引き継がれた(7/18)。清国と修好条規、通商章程、海関税則を結んだ(7/29)。樺太開拓使を北海道開拓使に合併した(8/7)。政府は諸藩兵を廃し天皇の統率する国軍の創設のため、2/22親兵を設置し、引き続き鎮台を設置、団隊を統括した。鎮台は東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)に置かれ、元藩兵を召集、常備兵とした(8/20)。政府は太政官布告で「穢多」「非人」の呼称を廃し、身分、職業とも平民同様にした(8/28)。旧生野藩領(兵庫県)の土民5000人、鉱山役所を焼き、県庁を取り囲んだ(10/13)。政府は条約改正の予備交渉のため、外務卿の岩倉具視を特命全権大使、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使として欧米派遣を決定した。多数の随員、留学生を加え総勢106名が11/12アメリカ船で横浜から出発した。条約改正など初期の目的は達せなかったが、各地の視察により文明開化の機運を促進する効果はあった。明治6年9月に帰国した(10/8)。前年にひきつづき農民騒擾が多発したが、藩政改革や廃藩置県による新政に反対する騒動も増加している。

「感想」

天皇のの統率する国軍の設置、廃藩置県による中央集権化、郵便制度の発足、貨幣制度の改革、神社に対する統制、文部省の設置による教育行政の充実、海底電線の敷設などソフト、ハード面での改革は進んだ。しかし、農民騒擾など、新政に反対する騒動も各地に頻発しており、安定していない。岩倉具視を団長とする、欧米視察団、留学生の派遣はその後の新政の展開に大きな影響を与えることになる。約1年10月にわたる、長期の海外派遣、視察であった。

1872年(明治5年)

政府は初めて全国の戸籍調査を実施した。この時の総人口は3211万1825人(1/29)。土地永代売買禁止令を解き、旧来の人民所持地の私的所有を認めた(2/25)。政府は鉱山心得書により、鉱物はすべて政府の所有とし、鉱山開採の権利は政府専有のものであることを規定した(3/27)。文部省は東京に師範学校を設立開校した。この後、各府県にも続いて開設された(5/29)。最初の近代的学校教育制度、「学制」を定めた。小学校から大学までの一貫した学校制度の確立をはかった(8/3)。山梨県の農民が、田租法存続を要求して暴動をおこし、軍隊に抑えられた(8/8)。新橋・横浜間に鉄道が開設され、開業式を行った(9/12)。文部省は教科書編成掛を設置して、中小学校教科書の編修を開始した(10/17)。政府は、生糸改良、機械製糸技術の普及を意図して、官営の富岡製糸場を開業した(10/4)。太陰暦を廃して太陽暦を採用するとの詔書が発布された(11/9)。神武天皇即位の年をもって紀元とし、即位日を祝日とした(紀元節)(11/15)。国立銀行条例、国立銀行成規を定め、銀行の設立を許可した(11/15)。天皇が全国徴兵の詔書を発布した(11/28)。

「感想」

新政府は、戸籍調査、土地所有制度、鉱山開発のあり方、教育制度の確立、国立銀行制度の確立など新しい仕組みに取り組んでいる。同時に、新橋・横浜間の鉄道の敷設、機械製糸の振興のため、官立の富岡製糸場などハード面での充実に努めている。徴兵制度を導入して、藩兵、士族からなる軍隊から、国民による軍隊への転換が開始された。しかし、学校建設費用負担への反発など、新制度の導入に対する反対運動も各地で発生している。