1865年(文久5年・慶応元年)

萩藩では、下関を拠点とする奇兵隊・遊撃隊ら諸隊と、萩の藩庁の正規軍が正面衝突、諸隊側が勝利、2月末までには藩論を討幕に一変させた。幕府、萩藩主・毛利敬親父子の服罪により、将軍の進発は中止する旨天下に布告した(1/15)。高知藩、城下九反田に開成館を開館、藩による勧業貨殖の方策と海軍養成の機関とした(2/5)。萩藩主・毛利敬親、藩政改革を行い、高杉晋作、山県狂介・井上聞多らの罪を許し、内には武備を強化、外には恭順をつくすことを藩論とする事に決定した(3/17)。鹿児島藩家老・新納刑部ら、串木野郷羽鳥からイギリス船に乗りイギリスに出発した(3/22)。幕府、軍事調査のため、外国奉行・柴田剛中にフランス派遣を命令。5/5出発、翌1/26帰国した(4/25)。英、米、仏、蘭の4カ国使臣、共同で覚書を作成、下関海峡の通航の自由、日本内乱への不干渉を決議した(5/28)。新任の英国公使パークス、横浜に赴任する途中に下関に寄港、井上馨、木戸孝允らと会見し、16日横浜に到着した(5/10)。将軍・家茂、上京して参内し、萩藩をふたたび征討する理由を説明した。防長の処置は国家の重大事なので、一橋慶喜ほかと熟議せよとの勅旨を受けた(5/22)。仏国公使ロッシュ、慶応3年5月に開催予定のパリの万国博覧会への参加を幕府に勧め、幕府はこれを承諾した(6/24)。鹿児島藩士・西郷隆盛、高知藩浪士・坂本龍馬らと会見、鹿児島藩の名義で武器を購入する萩藩の要請を受諾した。薩長連合の事実上の始まりである(6/24)。萩藩士・井上馨・伊藤博文は、坂本竜馬の海援隊及び鹿児島藩重役・小松帯刀らの斡旋で、長崎のイギリス商人グラバーから鉄砲、汽船を購入。更に7/28伊藤、井上は小松帯刀と共に両藩の意志疎通の為鹿児島を訪問した(7/21)。幕府が建設中の横浜製鉄所が竣工した(8/24)。鹿児島藩家老・新納刑部・五代友厚ら、ブリュツセルでフランス人モンブランと貿易商社設立の契約に調印した(8/26)。英、米、仏、蘭4カ国代表、将軍と朝廷に対し兵庫早期開港、条約勅許の交渉の為、連合艦隊を率い、兵庫沖に来航、英国公使バークスら、軍艦で大坂に来航、幕府につよく要求して、7日以内に回答がなければ、京都に赴き朝廷と直談判すると警告した(9/17)。将軍家茂、9/15大阪城を出て、朝廷に参内、萩藩再征の勅許をうけた。この時、鹿児島藩士・大久保一蔵(利通)は勅許を下さないように奔走した(9/21)。将軍家茂、名古屋前藩主・徳川慶恕を上京させ、条約勅許と兵庫開港を奏請して、将軍職の辞表を提出した。徳川慶喜、松平容保らはこれを聞き、大いに驚き、将軍家茂の不作法を詰問した(10/1)。朝彦親王、関白・二条斉敬、右大臣・徳大寺公純ら国事御用掛の公卿、徳川慶喜、松平容保ら、小御所において条約勅許を協議した(10/4)。天皇、条約は勅許するが、兵庫の開港は許可しないとの勅書を朝彦親王と関白・二条斉敬に渡した(10/5)。この年、攝津、下総、越後、大和、隠岐、安芸、豊後の諸国で農民の暴動、打ちこわしがおきた。津田真道(津山藩士)、西周(津和野藩医の子)がオランダ留学を終え帰国した。翌3/13幕府直参に抜擢、開成所教授職に任命(12/28)。将軍家茂、ナポレオン三世に書簡を送り、公使ロッシュが製鉄、機械購入等に尽力したことに感謝した(12/29)。

「感想」

萩藩が表向きには、幕府に恭順の姿勢を示しながら、藩内の内乱に勝利した、革新派の主導により、討幕方針に転換していった。武備を強化する為、坂本竜馬らの斡旋により、鹿児島藩の協力で、英国から、鉄砲、汽船の購入が出来た。薩長連合の始まりである。幕府も製鉄所の建設、人材の育成等、着々と手を打っているが、諸外国との条約、兵庫港などの開港の勅許が得られず、板ばさみになって苦慮している。萩藩の転向に対し、再度、萩藩を征討する勅許を得たが、鹿児島藩などの協力は得られない。幕府の意志で何でもやれる状況ではなく、事実上朝廷との協議でことを進めざるを得ないようになっている。将軍も大坂に居住することが多くなっている。全国各地で騒動も頻発。

1866年(慶応2年)

萩藩士・木戸孝允ら、坂本竜馬の斡旋により、京都の鹿児島藩邸で、西郷隆盛、小松帯刀と討幕の為の薩長軍事同盟を密約した(1/21)。幕府、神奈川、長崎、函館に、出稼ぎ、自由交易及び商人の外国船舶の購買を許可した(2/28)。幕府のフランス駐在総領事・エラール、江戸、横浜間の鉄道建設を幕府に勧誘した(4/4)。幕府、学術修行及び貿易の為の海外渡航を許可した(4/5)。鹿児島藩士・大久保利通、薩摩京都留守居・木場伝内の名で、長征への出兵拒絶書を老中・板倉勝静に提出した(4/14)。幕府、老中・水野忠精は英、米、仏、蘭4カ国と、安政5年以来、政局混乱の最大原因だった条約に、勅許がおり調印した(5/13)。幕府軍艦、萩藩領・周防大島郡を砲撃。陸上では、征討総督・松平茂承の率いる幕府軍が、各藩兵と共に、広島口、石州口、小倉口からあいついで萩軍に対し攻撃を開始した(第2次征長の役)(6/7)。老中・板倉勝静、仏国公使ロシュを兵庫に訪れ、征長作戦について協議、軍艦など武器の購入の斡旋う依頼した(7/2)。広島藩主・浅野茂長、岡山藩主・池田茂政、徳島藩主・蜂須賀斉裕、連署して征長軍の解兵を幕府及び朝廷に建言した。(7/18)。将軍・家茂、大坂城中で死去(享年21才)。8/20喪を発し、慶喜の宗家相続を布告した(7/20)。鹿児島藩主・島津忠義と父久光、一揆、打ちこわしの激発にふれ、政体変革と停戦の建議書を関白に提示した(7/27)。高杉晋作らの率いる奇兵隊を中心とする萩藩の兵は、軍艦5隻で門司、田の浦を砲撃、上陸して攻撃したので小倉口の幕府軍が敗走、小倉城 が落城した(8/1)。徳川慶喜参内して、征長を続行するとの前議をひるがえし、解兵を奏請して勅許を得た(8/9)。朝廷より休戦の沙汰書が出された。9/2幕府と萩藩の間で休戦協定。10月末に幕軍の撤兵が完了した(8/21)。岩倉具視の画策により、中御門経之、大原重徳ら22人の公卿、そろって参内し、佐幕派の朝彦親王、関白・二条斉敬を弾劾する。9/4関白、辞表を提出した(8/30)。幕府、水戸藩主弟・徳川昭武に、パリ万国博覧会に参加のため渡欧を命じた。1/11横浜を出発(11/29)。この年、武蔵、陸奥、出羽など全国的に江戸時代を通じて最大の規模、件数の農民、庶民の暴動、打ちこわしがおきた。天皇死去(孝明天皇)(36才)(12/25)。


「感想」


坂本竜馬の斡旋で、薩摩・長州の軍事同盟が結成され討幕の核が出来た。幕府は、勅許を得て、第2次の長州征討をしたが、薩摩藩は協力せず、反対する藩も多くなり、戦況も芳しくなく、解兵の勅許を得て、9/2に休戦協定を結び撤兵した。幕府の威信の低下は著しい。朝廷内でも、反幕府勢力が主導権を握った。幕府と協調していた、孝明天皇が死去、反幕府の情勢が更に強くなった。


1867年(慶応3年)

睦仁親王が践祚した(16才)関白・二条斉敬が摂政となった(1/9)。将軍・徳川慶喜、大坂城内で仏公使・ロッシュと会見、外交・内政について協議。その後ロッシュの幕政改革の援助が積極化した(2/6)。上京中の将軍・慶喜、開港期日(12/7)が迫ってきた兵庫開港の勅許を奏請した。3/19不許可。3/22再度奏請したが、3/29再び不許の勅令が出された。(3/5)。高知藩士・乾退助(板垣退助)(30才)、中岡慎太郎、谷守部(干城)ら、鹿児島藩士・小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)らと京都で会見、討幕挙兵の密約をした(5/21)。将軍・慶喜が参内し、萩藩の処分の寛大及び兵庫の開港を奏請した。朝議は紛糾したがやっと勅許が出た(5/23)。高知藩士・後藤象二郎、坂本竜馬、中岡慎太郎ら、鹿児島藩士・小松帯刀・西郷隆盛、大久保利通らと会見、幕府に大政奉還をさせる両藩盟約をむすんだ(6/22)。幕府、職制改革を行い、国内事務総裁、会計総裁、外国事務総裁を新設、陸軍総裁、海軍総裁を任命した(6/29)。長崎の丸山で、英艦イカルズ号の乗組員二人が殺害された(7/6)。鹿児島藩士・西郷隆盛、英国公使館・通訳官・アーネスト・サトウと会見、サトウは、仏公使ロッシュが幕府を援助していると告げ、日本の政体を革新する必要があると、西郷に勧告した(7/20)。高知藩士・後藤象二郎、福岡孝弟と共に、鹿児島藩士・小松帯刀、西郷隆盛と会見、大政奉還の建白の実行と、挙兵期日の延期を求めた。西郷らはこれを拒絶したが、後藤の奔走により10/2、高知藩の建白書の提出を了承した(9/9)。長州訪問の鹿児島藩代表の大久保利通ら、萩藩主父子らと会議を行い、倒幕挙兵の盟約をむすんだ。翌日、広島藩使者・植田乙次郎と協議、鹿児島、萩、広島三藩の出兵がまとまった(9/18)。高知藩士・後藤象二郎ら、前高知藩主・山内豊信の大政奉還建白書を老中・板倉勝静に提出した(10/3)。鹿児島藩士・大久保利通、萩藩士・品川弥二郎ら、岩倉具視、中御門経之と会見し、倒幕の具体的計画をうちあわせ、王政復古策と職制案を協議した(10/6)。広島藩主・浅野茂長、大政奉還建白書を幕府に提出した(10/6)。岩倉具視、鹿児島藩主父子あての倒幕の密勅を大久保利通に、萩藩主父子官位復旧の宣旨を広沢真臣に手交した(10/13)。将軍・徳川慶喜、在京四十藩の重臣を二条城に集め、大政奉還を諮問した(10/13)。高家大沢基寿、将軍慶喜の命により大政奉還上表を朝廷に提出した(10/14)。三条実愛、広沢真臣に萩藩主父子あての倒幕の密勅を、大久保利通、広沢真臣に、松平容保、同定敬誅伐の宣旨を手交した(10/14)。朝廷、将軍慶喜の参内をもとめ、大政奉還の御沙汰書を渡した(10/15)。朝廷、慶喜を召して朝議を開き、また在京諸藩の重臣達60余人に諮詢し、善後処置を協議した。10/22慶喜にしばらく外交事務その他の緊急事務を委任するとの御沙汰書がだされた(10/20)。中山忠能、三条実愛、中御門経之、倒幕実行猶予の御沙汰書を鹿児島、萩両藩に伝えた(10/21)。鹿児島藩主・島津忠義、兵を率いて鹿児島を出発、11/18萩藩世子・毛利定広と会見した。両藩のあいだで出兵協定が成立した。10/23入京(11/13)。高知藩士・中岡慎太郎、同坂本竜馬、京都河原町の近江屋で数人の刺客に襲われ、坂本は殺され、重傷の中岡も、17日死亡した(11/15)。萩藩家老・毛利内匠の率いる藩兵、三田尻を出発。11月29日、摂津打出浜に上陸し、西宮に進撃した(11/25)。

「感想」

睦仁親王が践祚(16才)、明治天皇の時代に入った。将軍・慶喜は、兵庫開港の勅許を奏請したが成功せず、再度の奏請でやっと勅許がおりた。幕府も、職制改革など、改革を進めた。一方、鹿児島藩、萩藩の密約により、倒幕挙兵の準備が進められた。将軍慶喜は、前高知藩主・山内豊信、広島藩主・浅野茂長らの大政奉還の建白をいれ、大政奉還の上表を朝廷に提出、受け入れられた。朝廷から、既に出されていた倒幕の密勅の実行猶予を鹿児島、萩両藩に伝えたが、倒幕軍の動きは止まらなかった。大政奉還・公武合体による改革派と、一挙に武力で倒幕して改革しようとする薩長勢力がせめぎ合い、朝廷内も両派に別れ、複雑な勢力争いをしている。

1868年(慶応4年・明治元年)

戊辰戦争がおこった。大政奉還・王政復古後も旧幕府勢力は依然として強大で、討幕派はこの壊滅を計画し、旧幕府側を挑発して、鳥羽、伏見の戦いを起こした。これに勝利をおさめた新政府は、慶応4年1月7日、徳川慶喜追討の軍をおこした。将軍慶喜は恭順したが、東北諸藩は、薩長勢の専制に憤激し、奥羽越列藩同盟を結び、対戦した。長岡城、会津若松城の攻防戦などの激戦があったが、戦いは政府軍に有利に展開し、9月末ごろまでにほとんど終了した。箱舘で最後の抗戦をした榎本武揚らの幕府軍も翌年5月には鎮定されてこの戦いは終わった(1/27)。外国事務取調掛・東久世通禧、兵庫で各国公使と会見し、王政復古の国書を手渡し、幕府の結んだ条約を守り和親する旨を通告した(1/15)。五箇条の誓文が出された。新政府内の結束を固め、社会の不安定を静め、諸外国に開国和親の姿勢を鮮明にする狙いがあった。明治天皇が神前に誓う形式で発表された(3/4)。新政府は、ついで民政方針五条の太政官高札を掲示した(3/15)。新政府は、平田派の復古神道の影響力が強く、神道擁護の目的で神仏習合の風習を禁ずる神仏判然令を出した。以後廃仏毀釈の運動が起こることもとになった(4/20)。明治政府は、長崎の浦上キリシタンを弾圧、教徒を逮捕、4010人を諸藩34家に分付するように命じた(4/28)。江戸城が無血開城され、徳川慶喜は恭順を示し、水戸に隠退した(4/11)。政府は五箇条の誓文に基づき、国是の具体的細目、軍用の規律を定めた政体書を出した。(4/27)。新政府は多くの出版物は、人心を惑わすものとして、新聞の無許可発行を禁止、出版書籍の原稿を事前に検閲する制度を定めた(4/28)。新紙幣太政官札が発行されたが、不換紙幣のため、流通は困難を極めた(5/25)。天皇が江戸を東京とする詔勅を下した(7/17)。天皇誕生日の9/22に天長節の執行を布告した(8/26)。明治と改元して一世一元とした(9/8)。江戸城を東京城と改称し、皇居とした。天皇は東幸のため9/20京都を出発し、10/13東京に到着江戸城に入った(10/13)。徳川氏は静岡藩に封ぜられ、沼津兵学校を設立、陸軍士官、人材養成にあたり、洋学の中心として明治の近代科学発達の端緒となった(12/8)。各地で農民の騒擾事件が頻発した。

「感想」

将軍慶喜はもともと水戸の流れを汲む、尊皇派で、大政も朝廷に奉還して、公武が協力して、新政治を行う姿勢であった。旧幕府の影響が残ることを嫌った薩長の倒幕勢力は、挑発して、鳥羽、伏見の戦いを起こし、これに勝利し、余勢をかって官軍として徳川慶喜追討の戦いを仕掛けた。もともと大将が恭順の姿勢を示しているのだから、4/11の江戸城の無血開城により、戦いは事実上終わった。公武合体による改革は、いわゆるた旧体制内での改革で、薩長勢力による新政治は、政権交代しての改革政治の展開と言える。東北諸藩などの旧勢力としては、将軍が恭順の姿勢を示しているのになぜだと憤激するのも理解できる。明治維新は政権交代により、矢継ぎ早に新政治を展開しているが、旧勢力の影響が残っている体制内での改革では、こうスピーディーな新政治の展開は出来なかったであろう。新政府は天皇の権威を高め、古来の神道を擁護、その権威を利用して新政治を展開している。錦の御旗、五箇条の誓文、神仏判然令、東京遷都など。幕府から遠く、冷遇されていた萩、薩摩藩、幕府の弾圧に対する反発、外国勢力との戦いを通じての大きな刺激が明治維新の大きなエネルギーになったのだろう。水戸派は、同じく旧幕体制に反発していたが、将軍慶喜を出し、体制内改革をしようとしていたが、新政治の主導権は握れなかった。体制内改革の限界だったのかも知れない。