1861年(文久元年)「感想」
萩藩は朝廷が主張する攘夷に反対、公武合体による開国・進取を進言した。幕府はこれに賛同。2/3に露艦が対馬に来航、上陸、勝手に拠点の建設をはじめた。占領の危機だったが、農民の反対運動、対馬がロシアに抑えられることを嫌ったイギリスの協力で露艦を排除出来た。和宮降嫁による公武合体の思惑は進んだが、朝廷は攘夷を条件にしていた。1853年のペルー来航の年には、ロシアは友好的に長崎に来航したが、ペルーの強攻策が成功したので、今回は強引に対馬に来航したのかもしれない。対馬藩も幕府も、これに対しなす術がなかった。
1862年(文久2年)
水戸浪士・平山平助ら6人、老中・安藤信正を坂下門外で襲撃、負傷させた(坂下門外の変)(1/15)。和宮降嫁問題の奸計を進めたことに対する尊皇攘夷派の反発だった。英代理公使ウィンチェスターが着任(2/9)。将軍・家茂(16才)と皇妹・和宮(16才)との婚儀が江戸城内で挙行(2/11)。幕府、蘭総領事・ウィツトに対し、軍艦建造及び海事技術習得のため留学生の派遣を依頼(3/22)。米国公使ハリスが解任(3/28)。開国、公武合体、洋式軍備の採用を主張していた土佐藩・仕置役の吉田東洋が尊王攘夷を主張する土佐勤皇党に高知で暗殺された(4/8)。鹿児島藩主・島津久光、公武合体、幕政改革など意見9か条を朝廷に進言するため、藩兵千余人を率い京都に入る(4/16)。島津久光の命により、挙兵により王制復古を目指す急進的な尊皇攘夷派の鹿児島藩士・有馬新七ら6人を京都・伏見の寺田屋で斬殺(寺田屋騒動)(4/23)。米人パンペリ、幕府に招かれて、蝦夷南部の鉱山調査を開始。火薬を用いての採掘、溶鉱法などを教え、翌年帰国(4/26)。朝廷は、島津久光の建議をいれ、勅使・大原重徳の江戸派遣を決定。島津久光も同道。勅使として、幕府に示した三事の策は、五大藩の大名を五大老として国政に参加させ、攘夷のための武備を充実。一橋慶喜を将軍輔佐に、松平慶永を大老にすることであった(5/8)。英国公使館を警護中の松本藩士・伊藤軍兵衛、2人の英国水兵を死傷させた(第2次東禅寺事件)(5/29)。萩藩主・毛利慶親は桂小五郎、日下玄瑞ら尊攘派から排斥された、長井雅樂に帰国謹慎を命じた。7/6に、尊皇攘夷に藩論を決定(6/5)。勅使・大原重徳、将軍・家茂と会い、徳川慶喜、松平慶永を幕閣に登用せよとの朝廷の意志を伝えた。7/6幕府は、慶喜を将軍後見職に(7/6)、慶永を政治総裁職に任命(7/9)、8/22大原勅使は目的をはたして江戸を出発(6/10)。幕府、諸藩に艦船の購入を解禁(7/4)。皇妹・和宮の降嫁に際し、朝幕間をとりもった佐幕派の四朝臣、二女官に反対運動が起こり、朝廷は岩倉具視らに、蟄居、辞官、剃髪を命じた(8/20)。大原勅使に随行し、務めを終えた鹿児島藩主・島津久光の帰路、神奈川村の生麦で、行列を横切った英人4人に斬りつけ、1人を斬殺、2人に負傷させた(生麦事件)(8/21)。幕府、初代京都守護職に会津藩主・松平容保を任命(8/1)。幕府、参勤交代制を緩和、大名は3年に1回の出府に、大名の妻子の帰国を許可した(8/22)。薩長土三藩による、尊攘派の運動により、朝廷は三条実美、姉小路公知を勅使として、攘夷の勅旨を幕府に伝達することを決めた。10/28勅使は江戸に到着(9/21)。朝廷、幕府が朝廷の意をうけて攘夷の方針を決めたので、対応して国事御用掛を設置した(12/9)。萩藩・尊攘派の高杉晋作(23才・松蔭の弟子)伊藤俊輔(博文)(21才、松蔭の弟子)志道聞多(27才、井上馨)らは、一挙に攘夷の挙にでようとして品川御殿に建設中の英国公使館を焼き払った(12/12)。幕府、諸大名以下に総出仕を命じ、攘夷の根本方針を布告した(12/13)。幕府、陸、海軍総裁を設置した(12/18)。
「感想」
和宮降嫁問題に関しての、尊皇攘夷派の反発(坂下門外の変)、鹿児島藩主・島津久光の主導による、公武合体、外様五大藩などを幕政に参加させるという幕政改革の動き(藩内の尊皇攘夷派を弾圧)、公武合体を進めていた萩藩が転向、尊皇攘夷派の主導で藩論を尊皇攘夷に決定、薩長土の尊攘派に動かされて朝廷から幕府への攘夷の勅諚など、朝廷を巻き込んで、尊皇攘夷派と、公武合体による改革・攘夷派、開国派がそれぞれの主導権争いも含めて複雑な動きをしている。もはや、幕府には、求心力はなく、指導力、統制力を急速に失いつつある。萩藩の決定は、明らかに反幕府の動きである。幕府は、対外国に対して、治安の維持能力も失いつつある。
1863年(文久3年)
英国代理公使・ニール、生麦事件についての謝罪、賠償金10万ドルの支払を要求。薩摩藩に対しては、直接交渉のため軍艦の派遣を通告(2/19)。尊攘派志士・松山藩士・三輪田綱一郎ら4人、京都等持院の足利将軍・3代の木像の首を引き抜き、「天誅」を加えたと賀茂河原にさらした(木像梟首事件)(2/22)。明かに幕府政治に対する非難で、きびしく探索、三輪田ら9人を捕縛した(2/26)。将軍後見職・徳川慶喜は、将軍の名代として朝廷に参内、これまでの失政をわび、これまでのように幕府に政務を委任させてもらいたいと願い出、天皇はこれを認めた(3/5)。天皇、賀茂下社。上社に行幸、攘夷を祈願、これに将軍・家茂、後見職・慶喜らも随行した(3/11)。幕府、朝廷の命令で10万石以上の大名に、朝廷守護の親兵を差し出すことを命令。4/3には、三条実美を京都守護御用掛に任命、親兵を統率させた(3/18)。将軍後見職・一橋慶喜、将軍家茂の名で、攘夷の期日を5/10とすると天皇に返答した(4/20)。老中・小笠原長行、三港の閉鎖と在留外国人の退去を各国に通告した更に、将軍後見職・一橋慶喜は将軍目代・徳川慶篤らと相談、東禅寺事件、生麦事件の賠償金として44万ドルを支払い、英国との紛争は一応おさまった(5/9)。英、仏、米、普、蘭の5国使者、幕府の国交拒絶の通告を非難し居留民の退去を強要するなら自衛行動にでると通告してきた。(5/10)。萩藩、幕府が朝廷に回答した攘夷決行日に、下関海峡を通行中の米国商船ペンブローグ号を砲撃、藩の軍船庚申丸と葵亥丸が襲いかかった。更に、5/23に仏国軍艦キンシャン号、5/26に蘭国軍艦メヂューサ号を砲撃、死者4人、負傷者5人を出した(5/10)。伊藤博文、井上馨ら萩藩士5人、横浜から密出国し、英国留学の途についた。しかし、翌年6/10、長州と4国連合艦隊との戦争を聞きつけて急ぎ帰国した(5/12)。老中・小笠原長行、尊攘派を抑えようとの考えで、約14.500名の兵を率い、英艦で海路大坂に上陸、京にのぼろうとしたが、将軍・家茂、淀でこれを阻止、6/9朝命で免職とした(5/30)。米艦ワイオミング号、萩藩の亀山砲台を報復攻撃、破壊し、庚申丸と壬戊丸を撃沈、葵亥丸を大破させた。6/5仏艦2隻、下関の各砲台を砲撃、陸戦隊250人が上陸、前田・壇ノ浦などの砲台を占領した(6/1)。萩藩士・高杉晋作、門閥身分制を度外視した新しい軍事組織である、奇兵隊を編成した(6/9)。鹿児島湾に待機していた英艦隊7隻、鹿児島藩の汽船3隻を捕獲したことから、同藩は10ヶ所の砲台から英艦隊に砲撃を開始し、2日間にわたる薩英戦争が始まった。鹿児島藩の砲台は破壊され、集成館・貿易船、城下の約1割が焼失した。英艦隊も殆どの軍艦が損傷を受け、旗艦ユーリアラス号の艦長が戦死したほか、60余人が死傷した。(7/2)。萩藩士や真木和泉
(50才、久留米藩)ら尊攘派志士のつよい運動に突き上げられ、攘夷祈願、親征軍議のため、大和行幸の天皇の詔勅が出された(8/13)。高知藩士・吉田寅太郎ら30人余の天誅組、攘夷親征が決定されたので、討幕の兵をあげるため、大和五條の幕府代官所を襲撃した。9/25、幕府追討兵により壊滅させられた(天誅組の乱)(8/17)。公武合体派の中川宮朝彦親王、孝明天皇(32才)の内意をうけ、宮中クーデターを実行し、大和行幸の延期、尊攘派公卿の参内、外出、面会の禁止、長州藩の堺町門警衛免除を決定した(8月18日の政変)(8/18)。失脚した三条実美ら7人の尊攘派公卿は長州藩兵と共に長州に向かって逃走した(7卿落ち)(8/19)。朝廷、各藩から集めた親兵の解散を命じた(9/5)。高知藩、武市瑞山ら尊攘派をいっせいに投獄した(9/21)。鹿児島藩、横浜で英代理公使ニールと、薩英戦争の講和談判を開始した。11/1生麦事件の償金として10万ドルを支払い(9/28)。尊攘派志士・平野国臣(35才、福岡藩士)ら、長州に落ちのびた7卿のひとり、沢宣嘉(28才)を擁して討幕の兵をあげ、但馬生野の代官所を占領したが、鎮圧藩兵により10/14壊滅させられた(10/12)。この年、羽前、越後、信濃、大和、但馬、伊予、肥前、豊後の諸国で、農民の暴動、打ちこわし、強訴などがおこった。朝廷、徳川慶喜、松平容保、松平慶永、山内豊信、伊達宗城に朝議参与を命じた。翌1/13には島津久光にも命じた(12/30)。
「感想」
朝廷からの再三の勅命により、老中・小笠原長行は5/9、各国に3港の閉鎖と在留外国人の退去を通告した。各国はこれに反発、自衛手段をとると通告してきた。この攘夷は、5/10からとの幕府の決定に呼応、萩藩が外国船を攻撃、逆に多大な損害を受けた。更に、生麦事件に関連して、薩英戦争が起き、薩摩は多大な損害を受けたが、英艦にも損害を与え善戦した。又、朝廷を担ぎ、尊皇攘夷、討幕の動きも活発化したが、孝明天皇は討幕の意志はなく、公武合体・攘夷の考えで朝廷内をまとめ、尊皇攘夷派の公卿を排除した。朝廷、幕府とも確たる方針がなく、周囲の情勢と、側近の意見に左右されているように思う。討幕・尊皇攘夷(長州藩・尊皇攘夷の公卿)と公武合体・攘夷(孝明天皇、徳川慶喜ほか)、公武合体・現実的な開国・しぶしぶ攘夷(幕府老中)のせめぎあいが見られるが、幕府、朝廷とも確たる信念が持てなかったのだろう。老中・小笠原長行が兵を率い、京に上り、尊皇攘夷を抑えようとして、将軍・家茂に止められたのも奇妙。幕政の意志決定組織が崩壊している。
1864年(文久4年・元治元年)
将軍・家茂、上京し朝廷に参内、攘夷を緩和せよとの天皇の書翰を受けた。1/27には、三条実美ら攘夷激派と長州藩の処罰、国防の充実を望む書翰を受け取った。(1/21)。英国公使にオールコックが帰任した。横浜の英国の地位確保のため、海軍力の行使、香港駐在の陸軍の派遣を要求する権限を付与されてきた(1/27)。函館奉行支配調役・並山錫次郎ら貿易試行のため、兵庫を出帆して上海にむかった(2/9)。将軍・家茂、朝廷に参内して、二度にわたる天皇の書翰に対し、横浜の鎖港と沿海の防備に尽力すると答えた(2/14)。仏国公使ベルクールの後任として、レオン・ロッシュが着任。幕府を積極的に支持、英国公使パークスと対立した(3/22)。水戸藩・尊攘派・藤田小四郎ら天狗党は、幕府が横浜鎖港を断行しないので、攘夷先鋒の勅許を得ようとして決起、関東各地の尊攘激派の志士達が、続々と筑波山に結集した(3/27)。英艦コンカラー号、横浜に来航して、陸兵1500人を上陸させた(4/23)。英・仏・米・蘭の各国使臣、下関通行及び横浜鎖港について覚書を作成、幕府に同文の通牒を発した(4/25)。横浜鎖港談判使節・池田長癸らパリ約定に調印。下関海峡通行、輸入税率引下げは協定したが、横浜鎖港の交渉は断念(5/17)。新撰組、京都三条の旅館・池田屋を襲撃、熊本藩士・宮部鼎三、長州藩士・吉田稔麿ら20余人を斬殺(池田屋事件)(6/5)。長州藩、長門黄波戸浦で、米船モニターを砲撃した(6/8)。英艦バロッサ号、攘夷が無謀なることを説得する為、英国から急ぎ帰国した井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)を乗せ、横浜を出帆して長州に向かった(6/18)。英、仏、米、蘭の4カ国の使臣、下関砲撃について共同覚書を協定、下関通航の安全を幕府に要求(6/19)。井上聞多、伊藤俊輔山口に入る。7/5伊藤と井上はバロッサ号を訪れ、軍事行動の3ヶ月延期を求めたが、ダウエル艦長は応ぜず、横浜に帰り、4カ国公使に報告した(6/23)。幕吏として公武合体・開国進取を説いて回った佐久間象山が京都で尊攘派に暗殺された(7/11)。横浜鎖港談判使節・池田長癸がパリから横浜に帰国。22日鎖港の非を力説したが、幕府は使命を果たさなかったとして譴責処分にした(7/18)。池田屋事件で刺激された萩藩急進派の千数百名の兵が、君側の奸を除くとの名目で京都に入り、防衛の幕府軍と交戦し日下玄瑞らが戦死(禁門の変)、7/21敗走した真木和泉ら浪士、天王山で包囲され自刃(7/18)。萩藩追討の朝廷の命令が、禁裏守衛総督・徳川慶喜に出され、7/24幕府は西国21藩に出兵を命じた(7/23)。英、仏、米、蘭4カ国連合艦隊17隻、豊後姫島沖に集結(7/27〜28)。4国連合艦隊、下関海峡で萩藩砲台と交戦。8/6、陸戦隊二千余人上陸、砲台を破壊して大砲を奪った。その後も、山県狂介(有朋)の率いる奇兵隊と8/8まで激しい戦闘が続いた(8/5)。萩藩、家老の養子・刑馬と偽名を使った高杉晋作を正使として、伊藤、井上の通訳で講和の交渉を開始。8/14、外国船の自由通航、石炭などの供給、砲台の撤去、償金の支払いなど講和条約が成立した。萩藩攘夷派の完敗だった(8/8)。英、仏、米、蘭の4カ国公使、老中・水野忠精らと会い、横浜鎖港の意図を非難、下関事件の償金を幕府に要求(9/6)。英国士官ボールドイン、バードの2人、鎌倉で襲われ殺害された。2/29犯人は処刑された(10/22)。水戸の天狗党、武田耕雲斉を首領にして、徳川慶喜を頼り、攘夷の意志を朝廷に陳述せんと中仙道を京都に向かって出発した。12/16慶喜が追討の兵を差し向けた事を知り、加賀藩に降伏した。翌2/4武田ら25人は処刑された(11/1)。萩藩、幕府への恭順の意を表し、禁門の変の責任者として3家老に切腹を命じた。更に、11/12宍戸ら4参謀を斬罪に処した。かくして、第一次長州戦争は完全に長州の敗北となった(11/11)。萩藩士・高杉晋作、遊撃隊と力士隊(総督・伊藤俊輔)を率いて下関新地会所(藩庁出張所)を襲撃、藩論を尊攘討幕に回復するための戦いが始まった(12/16)。征長総督・徳川慶恕、萩藩が恭順服罪の状を示したので征長諸軍に撤兵を命じた(12/27)。
「感想」
幕府は朝廷の指示に従い、攘夷を言いながら、実際には実行できる力がなく、体制もない。口先だけであった。急進的な攘夷派のは萩藩は、下関海峡を通航する外国船を攻撃、逆に4カ国艦隊により報復攻撃を受け、多大な損害を蒙り講和した。朝廷も、攘夷を指示しながら、下関、鹿児島での戦いから、一転攘夷を緩和するようにと態度を変えている。天皇を担ぎ、攘夷を決行しようと企む、尊皇攘夷派の志士が京都に集まり、開国派を斬るなど京都は乱れていた。朝廷、将軍警護、治安維持のため、幕府が編成した新撰組が、治安維持のため、尊攘派の志士などを取り締まり、池田屋で萩藩の志士らを斬殺した。これに怒った萩藩が上京、君側の奸を除くとして戦争(禁門の変)。孝明天皇は、萩藩の行動に怒り、萩藩追討の指示をした(第1次長州征伐)。萩藩は4カ国軍艦からの攻撃も重なり、幕府に恭順した。4カ国軍艦の攻撃で敗退、幕府の長州征伐で恭順、幕府に殺された吉田松蔭の門下生の恨み、池田屋で幕府・新撰組に殺された萩藩・志士の恨み、萩藩の尊皇攘夷派は、攘夷の旗を一時引っ込め次第に尊皇・討幕派に変わっていった。