1857年(安政4年)     

オランダ理事官・クルチウスがアロー号事件(第2次アヘン戦争)を長崎奉行に知らせ、この事件は清国が条約を履行せぬ為起こったものであるから、貴国も些細なことから戦端を開かないようにと、幕府の通商拒否方針に警告した(2/1)。遠江国・豊田郡の幕領二俣・二鹿島村などで一揆(2/29)。矢田堀景蔵、幕命により長崎海軍伝習生を率い、観光丸で江戸への回航に出発した(3/4)。日本人の手により始めて回航に成功した(3/26)。幕府、築地講武所内に軍艦教授所を設置、長崎での海軍伝習関係者がその教授を担当(4/11)。鹿児島藩主・島津斉彬、鹿児島磯邸内に建設中の洋式製作工場ほかを集成館と命名、溶鉱炉、ガラス工場、陶磁器工場を擁し、動力は水車で工員数は1200人といわれた(5/19)。老中・阿部正弘が39才の若さで病死した(5/17)。幕府、特に老中・堀田正睦の開国政策に不満の徳川斉昭の辞意をいれ、海防、軍政改革参与の役を免じた(7/23)。ハリス総領事(53才)、江戸上府の許容を下田奉行に要求、徳川斉昭、慶篤父子、尾張藩主・徳川慶恕ほか溜間詰諸大名はことごとく反対したが、万国普通の常規に従い上府登城させるとして8/6に許した。カッテンディーチン・ポンペら第2次海軍伝習教官隊がオランダから長崎に到着、ペルスライケンらと交替した(8/4)。幕府、江戸に新営中の函館物産会所を落成した(8/26)。長崎奉行・水野忠徳とオランダ理事官クルチウスのあいだで、事実上の通商条約を結んだ。新たに長崎のほかに函館での貿易を許し、貿易額、入港船数の制限を撤廃ほかを定めたが、貿易方法はいぜんとして会所の直営とし、内外人間の直接取引きは許さなかった(8/29)。ポンペ、長崎海軍伝習の一環として西洋医学の講義を始めた。松本良順ら医学伝習生となる(9/26)。米国総領事・ハリス下田を出発、陸路上府の途についた。10/14江戸に到着、蕃書調所を宿舎とした(10/7)。ハリス登城して将軍・家定に米国大統領親書を提出した(10/21)。ハリス、老中・堀田正睦(47才)と会見、通商の急務を説き、公使の江戸駐在、日米両国人の自由貿易など条約を改定するように勧告した(10/26)。幕府、米大統領の親書、ハリスの口上書写しを御三家ほか諸大名に示し意見を求めた(11/1)。下田奉行・井上清直、目付・岩瀬忠震がハリスと蕃書調所でハリスと第1回日米通商交渉を開始した(12/11)。

「感想」
幕府は着々と長崎の海軍伝習を強化、拡大、西洋医学の学習も始め、更に江戸の講武所内でも軍艦についての教育を開始した。ハリスは下田での幕府の出先での交渉を越え、江戸で将軍との直接の交渉を要求し、徳川斉昭ほか諸大名は反対したが、堀田正睦はハリスの強硬姿勢に折れこれを認め、将軍との対面が実現した。
進歩的な鹿児島藩主・島津斉彬は鹿児島に洋式工場を作った。大船建造の解禁、日本の船に日章旗の掲揚などの幕府への提案を含め、島津斉彬は時代をリードしている。徳川斉昭は幕府の開国政策に不満で海防・軍政改革参与を辞任。開国と攘夷の軋轢の種が生まれている。

1858年(安政5年)

幕府はハリスに、交渉中の通商条約について、天皇の勅許が必要との理由で、調印を3/5まで2ヶ月延期を要請した(1/5)。新たに、深川越中島に講武所付調練所を開設(2/5)。老中・堀田正睦が随員と共に、天皇の勅許を得る為江戸を出発(1/25)。幕府、ハリスからの通商条約について、日光神慮をうかがうように日光御門跡にお達しをだした(2/2)。天皇は国家の重大事件であり、兵庫開港の除外、京都の警備方法など御三家以下諸大名の本心を聞いて態度を決めたいと勅許を与えなかった(2/23)。老中・堀田正睦は再度、条約署名の勅許をもとめた。ハリスは海路、江戸に上がり条約の署名を督促(3/5)。幕府からの工作、説得により、朝廷は一旦「御三家をはじめ諸大名の意見を聞くことを条件にするが、条約調印とは政治向きのことだから幕府に任せる」趣旨の勅答にまとまりかけたが(3/11)権大納言・中山忠能ほか88名の公家が連署してこれに反対した(3/12)。3/20に下された勅答は2/23のものとほぼ同じ内容だった。老中・堀田正睦は万策尽き江戸に戻った(4/20)。彦根藩主・井伊直弼(43才)が、溜間詰譜代大名と、徳川斉昭を嫌う大奥の支持をうけ、越前藩主・松平慶永(30才)を蹴落して大老に就任した(4/23)。老中・堀田正睦はハリスと会見、条約署名を延期し7/27とした(4/24)。幕府、初めて陪臣
(大名の家来・直参ではない)の蕃書調所への入学を許可(5/23)。水戸藩、反射炉により火砲鋳造に成功(5/23)(1852に佐賀藩が初めて成功している)。ハリスの要請により、遂に、日米通商条約に調印(6/19)。幕府、堀田正睦以下5老中の連署した奉書を天皇に差し出し、翌日、諸侯に公示。この機会を失すれば、英仏諸国の軍艦が来航して、清国のような状況になる恐れがあるので、勅許を経ず、臨機に調印した旨伝えた(6/21)。水戸前藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川慶恕ら5名が突如登城して、大老らに条約の違勅調印を責め、次期将軍に徳川慶喜(21才)の擁立を説き、将軍の世子発表を延期せよと迫つた(6/24)。幕府、御三家以下諸大名に和歌山藩主・徳川家茂(12才)を将軍世子にすると公表した(6/25)。幕府、6/24の行動を理由に徳川斉昭を謹慎処分に、ほかを処分した(7/5)。将軍・徳川家定(34才)が死去(7/6)。日蘭修好通商条約調印(7/10)。加賀国附近で米騒動・打ちこわし(7/11から12)。日露修好通商条約調印(7/10)。日英修好通商条約調印。日仏修好通商条約調印(9/3)。明白な違勅の条約調印と攘夷派の斉昭らの謹慎処分に、朝廷や攘夷派の志士達は激怒、活動を開始した。朝廷から水戸藩に直接攘夷を行うようにの勅諚が出された(8/8)(戊午の密勅)。8/10には幕府にも同趣旨の勅諚が出された。9/2には朝廷内の親幕府派の関白・九条尚忠を辞職に追い込む。これは、幕藩体制を否定する行為だったから、井伊直弼は大弾圧を決意した(安政の大獄の開始)。梅田雲浜、橋本左内、吉田松蔭、頼三樹三郎、安島帯刀など水戸藩関係者、一橋派、攘夷思想家など次々に逮捕した。公家達は恐怖におびえ、急速に幕府の意図に迎合、関白・九条尚忠の復職(10/19)、遅れていた将軍宣下(6/24)、条約調印も止む無し、鎖国復帰は武備が充実するまで猶予との勅諚を出した(12/30)。

「感想」

将軍継嗣についての一橋派と紀州派との争いに、日米通商条約調印問題にからむ開国、攘夷派の争いが結びつき、幕藩体制にきしみが生じ始めた。長崎からの外国情報、直接ハリスほか外国使節と接触している幕府は、攘夷など出来る状況ではないことを自覚していたし、受身ながら現実的に対応した。間接的な情報しかない朝廷は、朝廷を利用して幕府を揺さぶろうとした徳川斉昭ほかの影響で、開国を脅威に思い、非現実的な攘夷を言い始めた。一橋派と朝廷勢力が結びつき、幕藩体制の権威を崩壊させようとしていることに危機を抱き、井伊直弼は、一橋派とこれに結びつく朝廷勢力、現幕府体制への反対勢力の一掃に乗り出した(安政の大獄)。反対勢力は全て攘夷派とは限らず開国派も含まれている。井伊直弼の行動は、少し過激ではあったが、従来の体制を維持する責任者としてその行動は理解できる。ただ、行為が過激であればあるほどその反動も大きくなるもので、その後の尊王・攘夷活動を活発化させることになったと思う。

1859年(安政6年)

幕府の圧迫により、左大臣・近衛忠熙、右大臣・鷹司輔熙は辞官・剃髪、前関白・鷹司政通、前内大臣・三条実方は剃髪を要請された(1/10)。所司代・酒井忠義、宮・堂上の処罰の幕府内命を関白・九条尚忠に伝えた。2/17に朝廷は青蓮院官・一条忠香など6名を謹慎処分にした(2/5)。長崎海軍伝習所を閉鎖。ポンペの医学伝習とハルデスの製鉄所建設は続行(2/9)。幕府、水戸藩家老・安島帯刀、藩士・茅根伊予之介を拘禁、糺問を始めた(4/26)。駐日総領事兼外交代表・オールコック来着(5/26)。ハリス、幕府に弁理公使に昇任を通告(5/27)。幕府、6月以降、神奈川、長崎、函館で露、仏、英、蘭、米との自由貿易を許可する旨布告。但し、甲兜刀剣など売却禁止品も指定した(5/28)。幕府、神奈川の外国人の居留地を定めた(6/5)。幕府、開港場における武器購入を大名、旗本、藩士に許可した(6/20)。露国士官・水夫、横浜で攘夷派に襲われ、二人死亡(7/27)。幕府、徳川斉昭に国許で永蟄居、水戸藩主・徳川慶勝に差控、徳川慶喜に隠居・謹慎、其の他岩瀬忠震、ほか3名の一橋派の幕吏も処罰。水戸藩家老・安島帯刀ほか3名、切腹、死罪など伝達(8/27)。幕府、蝦夷地を会津、仙台、久保田、庄内、盛岡、弘前の6藩に分与、警備と開拓を命令(9/27)。尊攘派の頼三樹三郎、橋本左内の死罪を言渡し(10/7)。幕府、一橋慶喜の擁立を企てた高知藩主・山内豊信を謹慎処分にした(10/11)。老中・間部詮勝の襲撃を計画した吉田松蔭を死罪に処した(10/27)。朝廷、攘夷を主張していた青蓮院宮に隠居、永蟄居を命ず(12/7)。岩代、信濃、伯耆で一揆。幕府、水害等による米価騰貴のため、関八州に酒造高半減を命ず(12/10)。幕府、水戸藩主・徳川家篤に安政の大獄の重大原因になった勅書
(安政5年8月8日の攘夷の勅諚)を返納せよとの勅旨を伝達(12/16)。英総領事館雇・通祠・伝吉が何者かに殺害される(12/23)。

「感想」

開港、貿易準備が着々と進んだが、先の朝廷を巻き込んだ一橋派の攘夷への動き、反幕府の動きに対し、徳川斉昭ほかの大名、攘夷思想家、朝廷の公家達に徹底的な処罰が行われた。特徴として感じるのは、天皇、藩主たる大名の側近が、特に武士が、攘夷思想家が死罪など厳しく罰せられたことである。所謂、君側の奸ということだろう。トップを咎めるのは、憚られるところがあり、影響も大きいためと考えられる。過激な、攘夷のテロが起き始めた。

1860年(安政7年・万延元年)

幕府の軍艦・咸臨丸(約300トンの小艦)が品川を出発(1/19)、米国訪問に向かった。2/26サンフランシスコに入港、5/6に品川に帰着。目的は遣米使節の雑用品をアメリカに届ける事になっていたが、真の目的は、長崎の海軍伝習所で学んだ航海術を実地に試みることであった。軍艦奉行・木村攝津守嘉毅、艦長・勝安房ほか福沢諭吉など約90人が乗組む。日本近海で難破した、アメリカ測量船艦長・ブルック大尉ほか11名のアメリカ人も乗り込む。日米修好通商条約に基づいた遣米使節は、外国奉行兼神奈川奉行・新見正興ほか約70名が、米船・ポーハッタン号にのり、横浜を出港(1/22)、3/28に米国大統領と会見、9/28に江戸に帰着した。オールコック・英特命全権公使に昇任したと幕府に通告(1/30)。横浜に上陸したオランダ商船長・デーボスら2名横浜で殺害(2/5)。水戸藩内、勅書返納で紛糾、返納時期を延期(2/15)。水戸藩浪士・関鉄之助、薩摩浪士・有村次左衛門ら18名、櫻田門外で大老・井伊直弼を襲撃、殺害した(櫻田門外の変)。3/30に公表。(3/3)。この計画は、井伊大老を殺害後、上方で薩摩の軍と合流して決起し、攘夷を要求する勅諚の趣旨を雄藩に告げ、幕政の一大変更を迫ろうとしたものであるが、関係者は捕らえられ、自殺に追い込まれたりして成功しなかった。しかし、この事件は、幕府の独裁的政治支配を復活、強化しようとする政治潮流に大きな打撃を与えた。丹波国で強訴(4/1〜7)。仏総領事ペルリ−ル、代理公使に昇任を幕府に通告(4/7)。所司代・酒井忠義、孝明天皇の妹、和宮と将軍・家茂の婚儀の斡旋を関白・九条尚忠に懇請したが、天皇は断ってきた(5/11)。幕府は、再度請願した(6/3)。水戸藩に勅書を返納するように命ずる再度の勅書を所司代・酒井忠義に手交した(6/13)。日葡修好通商条約を調印(5/17)。幕府、陪臣の軍艦操練所への入学を許可(6/20)。議奏・徳大寺公純、和宮降嫁に反対したため、幕府の圧力により辞職させられた(6/18)。萩藩士・木戸孝允(27才・松蔭の弟子)、松島剛蔵、水戸藩士・西丸帯刀は、水戸藩は条約破棄、攘夷決行、萩藩は事後収拾に当たることを、丙辰丸船上で盟約(丙辰丸盟約)(7/22)。徳川斉昭が死去(8/15)。天皇、条約破棄または攘夷の実行を条件に、和宮降嫁・勅許を幕府に内達(8/18)、正式に勅許(10/18)、幕府が布告(11/1)。丹波国で打ちこわし(市川騒動)(8/21)。幕府、徳川慶恕、徳川慶喜、松平慶永、山内豊信の慎を解除(9/4)。仏公使館の傭僕・ナタールが江戸にて傷害を受ける。(9/17)。遠江国で強訴(11/17〜19)。幕府が、新たにプロシア、スイス、ベルギー三国と条約締結するとの奏上に天皇が激怒、速やかに和宮降嫁を破棄せよと関白・九条尚忠に伝えたが、所司代の懇請により撤回(12/1)。筑前国で強訴(島郷騒動)(12/4)。肥前国で打ちこわし(12/12)。米公使館・通弁官ヒュースケン、江戸で襲われ死亡(12/5)。日本・プロシア修好通商条約を調印(12/14)。

「感想」

幕府による開国、外国との交流、海軍力の強化、は着々と進んでいる。咸臨丸の米国への航海、遣米使節の派遣などで、先進の米国での見聞は大変な刺激になったと思う。一方、外国人により日本が侵されているといった、保守的な鎖国思想から抜けきれない朝廷、朝廷の意を受け、尊王攘夷の思想を持った水戸藩などの武士層の動きも活発になってきた。特に、安政の大獄が大きな刺激と、反発を作り出しているのは間違いない。特に藩主に対する処罰は、たいへんな反発運動を刺激していると思う。幕府は朝廷との宥和により、公武一和の実を挙げるため和宮降嫁を要請して、幕府の圧力で天皇は不承不承に受けざるを得なかったと思われる。外国人への襲撃が頻発、幕府は対策に苦労している様子が伺える。啓蒙の教育とかが必要であるが、当時は簡単ではない。桜田門外での大老・井伊直弼の殺害、それに続く攘夷の計画は幼稚で、衝動的とも思えるが、その後の幕藩体制、尊皇攘夷運動に大きな影響を与えたと思う。