様々な会2011-11-19改訂

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1、(京城)元町小学校同窓会

私は昭和19年の元町小学校の卒業生(33期)です。昭和20年終戦の時の卒業生も既に、満71〜72才になる。終戦とともに、皆京城を離れ、日本に引き揚げ各地にちりじりになりました。
年と共に、小学校時代を懐かしむ心が芽生え、昭和45年有志により東京で同窓会を結成、以後、東京、大阪、名古屋、福岡、広島、山口、仙台ほかの各地で全国大会を開催してきた。それも会員の
高齢化とともに、継続するのが難しくなり、平成13年の大阪大会をもって終了となった。
東京周辺に在住の同期会は、年に1回の会合をひき續きやっている。又、元町ゴルフ会も年に数回開催しています。
卒業した小学校が、異国の地になり存在しないこと、共通の引き揚げ体験と戦後の苦労などが、お互いの親近感を増やす作用をしているのか、和やかな楽しい会合になっています。

2、(京城)龍山中学校同窓会2005−10−28改訂

昭和20年8月迄在籍した龍山中学校も異国の地になってしまった。大正11年に28名の卒業生を出して以来、年々卒業生も増え、昭和20年の終戦時の在籍1年生を含め約4500名の健児を輩出した。
同窓生及び同期生は、日本各地に引き揚げ、それぞれ各方面で活躍してきた。
戦後全国各地に分散した同窓生は龍中同窓会を組織して、各地の同窓生の世話で、龍中同窓会総会を開催してきた。
それも会員の老齢化により、開催が困難になり、平成13年の東京大会をもって終了することになった。
最終大会には韓国から来賓として、現龍山高等学校(ソウル)の同窓会総会長の李 富栄 氏ほか9名の参加があり、会長から「先輩逹が龍山の校庭で汗を濡らしながら勉学に熱中した時から、もう半世紀の歳月が流れました。このように長い時間が経ちましたが、先輩逹が建てた其の雄志は、時代を飛び越えて龍山の生きる歴史となり、私ら3万龍山人たちの心強い支柱になっております。
たとえ世代と国境は異なっていましても、「龍山人」という垣根の中で、先輩達と私ら後輩たちは、一つの共同体をなしていると考えております。」等の挨拶をいただくと共に、1930年当時の龍中全景写真と、2000年に新築した現校舎全景写真を並び収めた記念品をプレゼントされた。
長々と最終大会での挨拶等を引用したのは、日韓関係について、植民地時代のこともあり、マスコミ等でいろいろと取り上げられ、一般の人に誤解を与えている気がするからである。
1998年に釜山の三星自動車を訪問した時、歓迎会の席で同席していた若者に、私が龍中出身だと話すと、親しげに、三星の社長も龍山高校の出身だと言っていた。
同期会の方は、引き続き実施することにして、2002−10には、仙台・秋保温泉、山寺、蔵王の旅行をした。



龍中同期


龍中・元町小・同期


山 寺


蔵王・頂上

2003年11月は、紅葉の美しい京都で開催されたが、都合が悪くなり、参加出来なかった。
2004年は10月12〜13日に、箱根で同期会を実施した。

箱根資料館前で 箱根駅伝記念碑前

2005年は10月18〜19日に、元町小学校卒の私とF君、M君が幹事役となり、那須温泉に泊まり、翌日は日光方面の観光をした。今回九州からK君が初参加され、約60年振りの再会を果たし、和やかに旧交を暖めた。

那須温泉にて

2006年は10月6〜7日にN君、T君の世話で筑波温泉郷に宿泊、N君の趣向で約1時間のショーを観覧しながらの宴会となり、ショーを終えてから夜遅くまで歓談した。今回は、はるばる福岡県からT君、高知県からY君が参加した。T君とは京城で別れて以来約60年ぶりの再会であった。翌日は、有志で筑波山に登った。


1994年−10月に同期生で母校を訪問したが、その際同窓会誌「龍中クラブだより」に寄稿した文  
ソウル再訪 を参考として載せておきます。

3、四高同窓会 2011-11-19改訂

一年間在籍した、和歌山県立海南中学については、全く付き合いはない。3年3学期〜4年終了までいた、新潟県立糸魚川中学については、学生時代に帰郷した時、友人と会ったり、上京してから、誘われて在京者の同期会に何回か出席したが、同期会が田舎の糸魚川附近で行われるし、親しい友人も少ないので、誘われることもあったが失礼している。
旧制高校は、昭和25年に学制変更により廃止され、私は昭和23年に最後の入学者となり、一年在籍しただけで、新制大学に移行した。
「自分を語る」でも述べたが、僅か一年間であったが、寮生活を含め、我が人生に大きな影響を
与えた。
同窓会名簿は昭和48年に四高開学85年記念として発刊され、昭和58年に開学95年祭の時に改訂版を発行、その後5年おきに改訂され、最新版は開学115年記念の平成13年版である。
名簿によると、明治19年に開学、明治22年に第四高等学校本科卒業生として、二部工科1名、理科3名の卒業になっている。その後徐々に増えて明治27年に一部法科8名、文科2名、二部工科9名、理科2名、農科1名の卒業である。ここで猛然と興味が湧いてきたのは、この僅かの学生をどのように教育したのかということ、又教育の学科、教授の構成がどうだったのかということ。私にはこの面での知識がなく、其のうち機会があれば調べてみたい。
明治28年から第四高等学校大学予科卒業生となり41名、その後増えて、大正10年には三部医科も含め244名の卒業になっている。
大正11年には第四高等学校高等科卒業生となり、文科・甲類、文科・乙類、理科・甲類、理科・乙類に分かれ、242名、最後の卒業生の昭和25年組は379名、昭和24年の一年終了組が360名となっている。
平成13年10月には、金沢で、開学115年祭が行われ、全国から同窓生698名、同伴者141名など約880名が参加して、会場は熱気に包まれた。最高齢は昭和2年卒の94歳(当時)であった。

平成18年には、更に120年祭もやろうということで、準備されている。
この大会は金沢市に、良い経済的効果をもたらしているのではないかと思う。
その他、全国各地で、四高会、寮歌祭など盛んであるが、東京では毎月4日に、東京四高会がもたれている。
平成15年6月4日に平成15年度東京四高大会がもたれ、139名が参集した。


平成16年6月4日に平成16年度東京四高大会がもたれ、122名が参集した。

平成17年6月3日に平成17年度東京四高大会がもたれ、139名が参加した。年をひとつ重ねたが、意気は益々盛んで、約2時間半があっと言う間に過ぎた。


南下軍の高唱 24修集合 会場風景 誠友会集合

平成18年6月5日に平成18年度東京四高大会がもたれ、今年で最後の大会ということもあり、約180名が参加した。24修からは21名である。寮歌「南下軍」「北の都」をはじめ、次々と高唱し、しばし青春の思いにふけった。

24修集合 先輩達の集合 会場風景

平成18年10月22日に最後の四高開学120年祭が金沢で開催され、会員約500名、同伴者約130名、その他来賓を含め約700名の大会になった。最高齢者は昭和5年卒の96歳、まだまだ元気で張りのある声で挨拶された。来賓の挨拶が続き、宴も進むにつれ、年次別に、次々と壇上で寮歌高唱となり会場は熱気に包まれ、予定の3時間があっという間に過ぎた。四高同窓会の資料、寮歌などは金沢大学に継承されることが金沢大学学長から確約された。

最後の四高開学120年祭全国大会・平成18−10−22・於金沢

全国大会の前日には、寮歌を後輩達に確実に伝承するため、四高OBで金大の第一回卒業生のT君の編曲・指揮指導の元に、金沢大学フイルハーモニー管弦楽団、同合唱団による四高開学120周年記念・交響詩「北の都」演奏会が石川県立音楽堂で開催された。残念ながらT君は最後の指揮をとることなく、8月に急逝されたが、後輩達が遺志を継ぎ、見事な演奏会となり、思わず寮歌による様々な思い、感動及びT君を偲び、涙がこみあげてきた。
その後、17:00から私達最後の四高生、通称
24修同期による同窓会がもたれた。会員70名、家族ら20名が参加し盛会だった。この会は当分続きそうである。

四高開学120年記念・交響詩「北の都」演奏会 四高24修 同窓会 全国大会

平成20年4月19日には2年ぶりに金沢で24修同期の四高入学60周年全国大会を開催した。本人64名、家族など12名が参加した。大会の前に開館準備中の四高旧校舎内に開館準備中の四高記念館を関係者のご好意で特別に見学した。大会では、代表者の挨拶、「南下軍」「北の都」「春は尾山の」など寮歌を高唱して会場は盛り上がった。中には、昭和24年の四高終了以来、初めて再会した友もいたが、約60年間の空白もあっという間に埋められた。

四高旧校舎 四高記念館
会場風景・寮歌斉唱 24修理甲1・2組

四高開学120年祭で最終としていたが、OB有志の熱意により、平成23年10月30日(日)に開学125年祭が金沢エクセルホテル東急で開催された。全国からOB約270名が参集し寮歌を高らかに高唱した。最高齢者は97歳で元気な姿には感動した。私は、久し振りに懐かしい復旧中の金沢城、兼六園から旧校舎内の四高記念文化交流館を見て会場に入った。

24修メル友会

2004年の初めから、長野に住むK君の提案で、24修の有志でお互いにメールを交換して楽しもう
との趣旨で、メール交換グループが発足した。色々な、情報が飛びかっている。
四高開学120年祭(平成18年)に向け、音楽をライフワークにしているT君が、寮歌をオーケストラ化すべく努力していること。
四高の代表的な応援歌「南下軍」について、そもそもの解釈と、なぜ代表的な歌になったのかの考察。
旧制高校とは?四高の校風を表す標語「超然」の由来と意味について。
琵琶湖畔の四高桜(昭和16年4月、四高の漕艇部の11名がインターハイへの栄冠を目指して練習中に遭難、翌年に追悼の為数百本の桜を植樹)の保存の為の活動。など。

2004-3-6(土)には、地元・高島町の「四高桜を守り育てる会」の主催で、会員と四高OB12名が参加して、四高桜の小枝を接木した苗木作りを行った。
この苗木は、会員が育て、数年後には、湖岸の公園や、県道沿いに移植する予定。

苗木作りに参加した四高OB
追悼の四高桜の碑(高島町) 四高桜(枯れかかっている) 苗木作りの会場

4、誠友会2012−6−2改訂

1997年秋に四高・至誠寮に在寮していた一年先輩のO氏が金沢から上京し、T君と3人で会った。前々から至誠寮に在寮していた仲間の会をつくろうではないかとの話はあったが、なかなか実現しないとのこと。
そこでパソコンが使え、名簿なども容易に作れる、1番若手の私が立ち上げようということで、先ず手始めに、昭和23年の、至誠寮の玄関前での集合写真を3人で眺め、知っている名前をあげていった。
ほぼ90%ぐらいは名前がわかったので、同窓会名簿を参照しながら、98年1月に66名の名簿を作成した。しかし殆んど24修組、25卒組が中心でそれ以上の先輩達の名前は一部しかわからなかった。
とりあえず、第一回会合を5月に東京で行う事にして、その他の知っている在寮生の紹介をしてもらうことにして、通知を出した。その結果、大きな反響があり、次から次へと紹介があり、第一代の全寮委員長は22年卒のO氏であること、至誠寮設立の経緯なども次第に明確になり、137名のリストが出来上がった。
残念なことに、既に亡くなられた方、不明な方もおられ、それを除くと現在87名の名簿になっている。
第1回総会は、98年東京で、其の後、京都、名古屋、東京、金沢と実施し、2003−6/11に京都で第6回総会を開催した。

誠友会第6回総会 会長挨拶 寮歌高唱

至誠寮は戦後東金沢の日本冶金(株)の社員寮を借り上げ、昔からあった時習寮で収容しきれない学生、海外からの引揚者、陸士・海兵等の軍関係の学校からの入学者を主体に収容する為設立された。(私は誠友会設立後初めて知った)従って、台北高校、旅順高校、陸士、海兵など出身の猛者も多く、独特の寮風を築いていたと思う。
この寮からの出身者も多士済々、あらゆる分野で活躍をしてきた。私にとっては、若き日の、その後の人生に強烈な影響を与えた期間であった。
第7回総会は、2004−5−28(金)大阪で開催、大阪の幹事のご努力もあり、夫人7名を含み
過去最大の32名の参加者になった。

誠友会第7回総会 華やかな会場風景 寮歌高唱

第8回総会は、2005−6−8(水)に名鉄犬山ホテルで開催、会員22名、夫人5名で27名が参加した。会場には四高寮歌のBGMが流れ、近況報告、四高及び寮生活の思い出が語られ、寮歌を高唱、予定の3時間があっという間に過ぎた。

誠友会第8回総会 夫人も含め寮歌高唱

第9回総会は、2006−5−9(火)に、東京の水交会で開催、会員23名、夫人6名の29名が参加し、参加者が漸減するこの種の総会としては、第7回の大阪大会・31名に次ぐ人数だった。四高寮歌「南下軍」「北の都」及び参加者の中に作詞者がいる至誠寮の寮歌「春は尾山の」を高唱し、暫し青春時代に戻り、近況、思い出を語った。第10回総会は、2007年5月15日(火)に京都で開催することが合意され、京都から参加の誠友が持ち帰った。

誠友会第9回総会 乾杯 夫人も含め寮歌高唱

第10回総会は、2007−5−15(火)に、再び京都の京都ガーデンパレスで開催した。たまたま当日は京都の三大祭のひとつ、葵祭の日に当たり青葉の美しい中で、平安朝の優雅な古典行列を見物した方もおられた。
当初は会員21名、夫人4名の参加予定だったが色々な事情で17名となったが、寮生活の思い出や近況を語り合い、あっという間に所定の時間が過ぎた。
会場には、四高120年祭記念の交響詩「北の都」のBGMが流れ、「南下軍」「北の都」の斉唱に次いで、至誠寮寮歌「春は尾山の」
「至誠の調べ」「水清き」を高唱してしばし至誠寮時代に戻った。いずれの寮歌も作詞、作曲者が当日出席しておられ感慨深かった。
第11回総会は、2008年5月14日(水)に再び、東京の水交会で開催することになり、既に会場は予約済みである。

誠友会第10回総会 寮歌高唱 スピーチ

第11回総会は、2008−5ー14(水)に再び東京の水交会で実施した。ここは、第1回の総会時に幹事役のN氏が専務理事をやっておられ、色々とお世話頂いて会場となった。残念ながらN氏は亡くなったが、会員の中に旧海兵関係者も多くおられ特に変更することもないのでここでは4回目の開催となる。
年々会員数が減少し淋しい思いをしているが、大阪、名古屋、金沢などの遠方からも参加され18名の総会になった。
至誠寮、四高の思い出、特に腹ペコの寮生活の中でも意気盛んだった時代を懐かしく語りあった。
寮歌も「南下軍」「北の都」及び至誠寮寮歌「春は尾山の」「至誠の調べ」を斉唱した。
「春は尾山の」作詞者のN氏、作曲者のK氏、「至誠の調べ」の作詞者のO氏も参加しておられ暫しの感慨にふける時間がもてた。第12回総会は懐かしい金沢で、2009−5−21(木)に開催することになり、O氏に世話役を引き受けて頂いた。

玄関前で 寮歌斉唱

第12回総会は、2009−5−21(木)に金沢の旧四高本館(現石川四高記念文化交流館)で総会を、金沢エクセルホテル東急で懇親会を実施した。
参加者は15名とやや淋しかったが、天気は雨の予想に反し晴れ上がり、昔のサイズでリニューアルされた2階の旧四高教室に入りO幹事の司会の下で総会は進行し、「南下軍」の斉唱で第一部は終了した。
ついで会場を金沢エクセルホテル東急に移し、懇親会を開催、出席者全員の近況報告などがなされた。楽しい時間もあっと言う間に過ぎ、恒例の寮歌「北の都」「南下軍」を高唱して散会となった。
次回は、再び京都の「京都ガーデンパレス」で2010−5−18(火)に開催することになり、S氏、K氏ほか関西在住の諸兄に世話して頂くことになった。

石川四高記念文化交流館で 金沢エクセルホテル東急で

第13回総会は、2010−5−18(火)に京都ガーデンパレスで実施した。この会場では4回目の開催である。
参加者は織田夫人ほか会員18名で、好天に恵まれ、会場前の御苑を散策しながら会場に来られた方もおられました。1年振りの再会で、近況報告やら、南下軍や至誠寮寮歌を斉唱し、楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去りました。皆高齢化して、最低年齢者が79歳になりましたが、これで終わりと言う方もなく、来年は名古屋地区で5月17日(火)に開催することになりました。

集合写真 会場風景 寮歌斉唱

第14回総会は、2011−5−17(火)に、名古屋駅近くの名鉄グランドホテルで開催した。名古屋地区での実施は、2000年に28名参加、2005年に27名参加で今回は3度目になるが15名の参加だった。高齢化に伴い、参加者が減少しているが止むを得ない。「南下軍」や「北の都」「春は尾山の」の寮歌を斉唱し、高校、寮生活の思い出話や近況を語り合い、時間の経つのを忘れて盛り上がりました。高齢化に伴い、参加者も減少しているし、何時までも継続するのは困難なので、2012年の東京での第15回総会で終わりにすることが合意されました。来年は東京地区で2012−5−15(火)に最終回の総会を実施します。

集合写真 寮歌斉唱

第15回総会は、2012−5−15(火)に、第1回総会と同じ東京の水交会館で開催した。参加者は関西四高会からの特別参加の2名を含め21名だった。思い起こせば、第1回総会は、1998−5−23に同じ会場で開催したが、22年卒〜24修の5年にわたる学年差から初対面の方も多かったが、15回にわたる総会を通じて親睦を深め、絶ちがたい友情を育んできたと思う。「南下軍」や至誠寮寮歌「春は尾山の」を斉唱し、交々に至誠寮、四高の思い出、高校生活の意義を語り、あっという間に時間が過ぎていった。奇しくも、東金沢に、海外からの引揚者、軍関係からの転入者などを救済する為に至誠寮が設立されたのが、1946−5−15、今回で最後とした総会日が5−15、まさに66年の歳月を経過したことになる。関西四高会はまだ健在だし、東京では金沢大学OBと共に「北の都会」、毎月随意に集まる「二水会」は継続されているので寮友との再会の機会はあるだろう。誠友会よauf Wiedersehen!

第1回総会・集合写真 集合写真 寮歌斉唱


5、東大・互励会

昭和25年に新制学制の2期として、東大教養学部(駒場)に入学した同期会。旧制と新制学制の移行期にあった為、旧制高校の出身者も多く、私はドイツ語既習組の、旧制高校出身者からなる理科一類・2組に入った。
同期会の誘いを受け、昭和58年から参加して、旧交を暖めている。名簿によると、同級生52名、其のうち既に9名が故人になってしまった。
1950年入学なので、50の互励(お互いに励ましあう)をとり、互励会と名付けた。
一昨年から互励ゴルフ会も発足。多士済々、一期一会を大事にして、時間の許す限り会に出席しょうと思う。

6、東大・船舶工学科・同期会2011-11-20改訂

昭和29年の船舶工学科の同期生の会、33名、残念だが既に6人が故人になってしまった。
有り難い、貴重な、世話を厭わない、東大教授(現:名誉教授)がずっと万年幹事として、会の世話をしてくれている。
従って、毎年2回、東京で同期会を持ち、5年ごとの節目には、旅行を含めた全国大会を持ち、併せてゴルフ会などもやる。
1999年の卒業45周年には、能登方面に旅行して、帰りに関ケ原CCでゴルフをした。
2004年には10月6日〜8日にかけて、十和田・青森方面に卒業50周年記念旅行を実施した。

十和田湖畔にて 十和田莊にて
関西、北海道からも参じ、生存者27名中20名の参加だったから、この種の行事としてかなり高い参加率である。旧交を暖めることができ、有意義で楽しい旅行であった。名幹事のお陰だと思う。更に次回もやろうということになった。
船舶工学科も船舶海洋工学科と名前を変え(平成元年4月)更に平成12年4月からは学科名から船舶の文字が消え他の学科と統合してシステム創成学科になった。
この間の事情について、大学の説明、同期造船の専門家からの説明もやや納得し難く、どちらかというと韓国、中国などとの厳しいコストダウン競争にさらされている不況業種の造船を志望する学生が減少していて、その傾向に迎合した処置と思われてならない。
事実卒業生の進路も様々な分野になっていて、平成9年の卒業生は36名、其のうち6名が専門の造船関係に進み、その他は、自動車関係7名ほか様々な進路になっている。
戦前・戦中を含め海運国日本を支え、富国強兵策により重視されてきた名門の船舶工学科だが、厳しい韓国などとのコスト競争により、技術開発コストをかけるゆとりを失い、その結果として船舶工学科卒業生へのニーズが減少していると思われるのは残念である。
造船量こそまだ韓国と世界一・二を争っているが、単なるコスト競争だけでなく、他を凌駕する技術開発をしないと、やがて日本の造船業は衰退の道をたどることになるのではないか?
これらの疑問を解消するため、造船業の現状と課題について造船専門の友人のひとりに質問したら、若干古いが、状況はほぼ同じということで論文を頂いた。母校の高校で講演した時の原稿だそうで、簡潔に的確に造船業の現状と課題について述べられており、示唆に富む内容なので、著者の了解を頂いたので皆様の参考に供します。
「戦後に於ける日本の造船業」
製造方式こそ異なるが、同じく総合産業の自動車産業が技術的に、コスト面でも国際競争力を保持、世界に羽ばたいているのだから、造船業もその可能性があり、関係者の奮起を求めたい。

2006年4月12日〜13伊豆方面に卒業52周年記念旅行を実施した。今回は生存者27名中14名の参加だった。会合では皆それぞれ近況を語り、ひと時学生時代に戻り、気候もよく楽しい旅行になった。名幹事のお陰だと思う。これから、年も重ねるので毎年実施しようとの声もあり、幹事預かりになった。

下田プリンスホテル 三島大社にて

2011年11月7日〜8日、諏訪方面に卒業57周年記念旅行を実施した。今回は8名の参加で淋しくなった。

7、荻友会2003-7-21改訂

主として日産自動車(株)の荻窪開発部門にいた、設計、試作、実験部門出身者の会。
1988年に大先輩の要請により、名簿つくりを始め、新宿で約30名の第1回会合をもった。
名称を荻窪の荻をとり、荻友会(実は家内が発案して、悪くはないので会合で提案したら賛同された)と名付け、新たにリタイヤする人を包含して今や約240名の会に発展した。
荻窪で年2回の会合をもち、2003年6月29日には、第31回の会合がもたれた。
この会が母体になり、編集委員の努力により、1991年11月に{「プリンス」荻窪の思い出}を、1997年11月に{「プリンス」荻窪の思い出-U}が発行された。
それぞれに寄稿した 「車体設計屋として」 及び 「あの頃の車体設計」 を載せておきます。

プリンス自動車(株)は、終戦前の、立川飛行機(株)(大正13年〜昭和20年)と中島飛行機(株)(大正6年〜昭和20年)の流れを汲み、先ず立川飛行機の技術者達が、戦後の生き残り策として電気自動車の開発、生産に着手した。
昭和26年6月まで、1099台生産したが、昭和25年の朝鮮動乱の勃発により、鉛が高騰、従ってバッテリー価格も高値となり競争力を失った。
ガソリンも出回るようになったので、昭和25年に1500CCのエンジン開発を戦前から交流のあった富士精密(株)(中島飛行機の後身)に依頼した。
その後の発展等、詳細は、平成12年10月に発行された、日産自動車の開発部門OBのボランチア活動により編集された「日産自動車開発の歴史(上)」に詳しく記載されているので省略する。
戦後の何もない時代に、無から自動車の開発・生産を目標に、日々努力して立ち上げていっつたので、今の言葉で言えば、ベンチアー企業であり、自動車の開発では設計・試作・実験及び様々な関係で密接な交流が必要なので、荻窪開発部門の仲間は、同じ釜の飯を食った仲間といった独特の雰囲気を持っている。