あの頃の車体設計 1997年 辰 巳 博 司 「プリンス」荻窪の思い出を執筆する為に、再度九一年版を読み返してみた。 企業経営の資源といわれる人・物・金・情報が不足してたのに、皆、若々しく新しい事にチャレンジした時代だったと改めて、懐しく思い出した。その中で、個性ある人々が、それぞれの持味を発揮し、光り輝いている。 私の入社は昭和二十九年、三鷹分工場の奥まった建物の二階に、ボディ、シャシー、艤装設計グループと、実験グループが居た。その年入った新人を含め、ボディ・グループは、ボディ構造、斉藤(専)さん、辰巳、ドァ・カバー類、冬木さん、杉田君、シート、内張、舟生さん、小野田(睦)さん。 これで全て。同室に設計部次長の田中(次)さん、設計第三課長の日村さんがおられた。既に、SHセダン月産約百台、TFトラック月産約四百台が生産中だった。ALSIは構想、基本計画に着手しようとしていた。 その年の冬、ストーブ当番で、朝早く職場に行った時、思いがけなく、SIの基本計画に集中されていた日村さんが、宿直室に泊り込んでおられ、ふとんからかま首をもたげ、今何時かね?と聞かれ、その姿勢に或感動を覚えたのを思い出す。 SIの基本計画図には、車体外観三面図が書かれており、(造形グループはなし)それに基づきl/5の石膏モデルを製作した。(モデル製作の原型。小野田(睦)さんが担当したと記憶している)斉藤専さんは、バッテン等を使って、車体の線図を書いた。 何の立体的なモデルもないのに、線図を画く技能には感心した。(後には、小生もできるょうになったが) 当時の車体図は、いくつかのブロックに分割したl/5スケールの組立図だった。小生もフロント・ボディ・ASSYの図面を書いたと思うが、圧巻は専さんの書いたサィド・ボディ・ASSY。 細かで煩雑な飯金図面で、しかもl/5スケール。独特のノウハウをもたないと、読みとるのは容易ではない。 専さんは、他部署の人、現場等から質問があると、不機嫌そうに応待していた。(悪気はないのだが不愛想) 立川飛行機時代の機体の展開方式(造船も同じ)の踏襲だと思うが、車体設計図から、治具課?の原図班でl/lの現物大の原図を書き、後工程の各部署はその原図から、必要な数値、図面情報を得ていた。(九一年版の中村さんの記事参照) 現在ではこの車体の展開方式は、コンピューター等を駆使し、l/1クレー・モデルの自動計測、フエャリングから始まり、設計CAD、型、治工具製作のCAM、等により、メーカー、部品メーカを含めたトータルとしての一元化した数値管理体制として出来上っている。 当時、プリンスはエンジンは良いが、ボディが良くないとよく言われたが、その原因の一端は、当時の事情として止むを得ないものがあったがこの展開方式にも一因があったと思う。