車体設計屋として 1991年 辰 巳 博 司 社会人になってからの三十七年間を振返ると、それぞれの時代の様々な出来事を瞬時に思い浮かべることがてきる。色々な事をやってきたなと思う。 その中て、三鷹、荻窪時代は、車体・車両設計十九年、試作四年を占め、いわゆる車体設計屋の時代だった。自ら車体のあるべき姿を考え、追求し、計画し、図面化し、実体ある物へと実現していく過程は大変楽しいものだった。 仕事に集中している時は、その車体構造が私の身体にとりつき、私の身体の一部になったかのように感じたものてある。 だから何か問題があると、自分の身体の一部が痛むように感じた。その感覚は、今ても鮮明に思い出すことがてきる。 入社して間もなく、イギリスのボグゾール、ドイツのフォード・タウナスの分解調査、スケッチをした。スラィド・スヶールとノギス片手に、手探りて車体構造を図面化した。 新技術を習得するには、真似るところから入るのが一番効率がよい。資金も乏しい時代に、当時としてはかなり高価なサンプル・カーを輸入し、設計資料に供した経営指導者の卓見は素晴らしかったと思う。 一時期・ロケット開発に参画し、東大生研の糸川先生の所に通った。日本の戦後のロケット開発はぺンシル・ロケットから始まったとされているが、その図面は私が書き、TINY LANCEと先生が命名した。子供の玩具のようなものだった。 幻の国民車DPSK、入社二、三年程度の若僧に車体設計計画をまかせていただき、車体構造の理想的な姿、設計目標を徹底的に考えさせてもらった。教科書等が特にあるわけでもなく、外国車の車体構造の資料を集め、参考にし、設計強度目標、品質目標、生産性上の留意点等考えぬいた。有賀さんは、タイガー計算器を回して、ねばり強く構造解析をやった。 当時は・少人数で多くの中味の濃い仕事がてきた、幸せな時代だった。特に勘定してみたことはないが、多分、手がけた車体設計の車種数てはレコード・ホールダーではないかとひそかに思っている。 昭和四十一年に初めて欧米に出張させていただいた時には感激した。最初は、パリ・モータショーの調査だった。初めて見るパリはとても美しく、何を見ても珍しく、宿はノートルダム寺院近くのの小さなホテルだったが、朝五時起きして、地図片手にパリ市内のあちこちを歩き回つた。その為、今ても、パリ市内地図は、東京都内地図より正確に頭に入っている。 その後も、何度か訪ねているが、情報過多のせいか、年輪のせいか、初訪の時のような感激性がもはやないのが淋しい。 自宅のダィニング・ルームの壁にAD−1のパネル時計がかかっている。車の紹介販売の賞品として貰ったものだと思うがまだ正確に動いている。このプロトタイプは無から有を生じたものだといってよい。 昭和四十八年暮のオイル・シヨック、社長命令で全ての開発業務が延期された。ローレルの1/1クレー・モデルにはカバーがかけられ、仕事のない作業者は繊維機械部に応援に行った。残りの人達は、職場の整理、機械工具の手入等やつていた。 その時造形の方では、アドバンスド・デザイン・カーのデザイン作業が進んでいた。 但し、それをプロトタイプ化することは予算上許されない。デザィナーはプロトタイプ化したがっている。皆と相談したら、前からの使い残しの材料をかき集めれば何とかなるとのこと。それならやるべきであると判断しプロトタイプ化を引き受けることにした。幸に、完成したAD−1は昭和四十九年のモーターショーに計らずも出品され、話題を提供することができた。 昭和五十一年に、私の職場から、日産初の技能オリンピックの金・銀・銅のメダリストが同時に生まれた。職種は打出板金てある。技能オリンピックについては、技能者の技能向上、モラール・アップ、日産の イメージ・アップの為に、人事部が旗振り役となって推進していたが、なかなかタイトル獲得ができなかった。従って、メダル獲得の時には、周囲の本社人事部門、工場部門等が、当事者より興奮し、大騒ぎをしている感じだった。これが契機となり、日産もやればできるということになり、この後色々な職種で次々とメダリストが生まれるようになり黄金時代を迎えることになった。お陰で、私も、日韓技能競技大会の委員として約三週間韓国を訪問し、建設途上の浦項製鉄所や現代造船所を見たり、コリアン・パワーの活力に触れることができた。今年、母を連れて韓国を再訪したが、オリンピックを経て、又一段と発展をとげ、ソウル市周辺も計画的に大都会化しているのを見て、同じアジア人として、又、終戦前にソウルに住んでいた者として大変嬉しかった。