戦後に於ける日本の造船業 1998.2.10 河 澄 龍之介 1.日本造船業の歴史(特に戦後史) 日本の近代造船の始まりは、明治29年(1896)に造船奨励法が制定され、日本で初めての大型 外航船常陸丸(6,120トン)が建造された明治31年(1898)頃とされているので今年は丁度100年の 歴史であります。 又この100年の歴史は太平洋戦争の敗戦(1945)を境に大きく戦前戦後のそれぞれほヾ50年の 歴史と大きく分けられます。 100年の昔、当時造船王国であった英国より、造船学、建造技術を学び近代化を目指す日本の産業の 尖兵としてスタートし、国策に沿った産業として造船業は急速に発展し、戦前に於いて既に英国、米国に 次ぐ第3位の造船国としての地位を確立しいています。戦前に於いても数々の有名な商船が建造されまし たが、この50年の歴史は何と言っても戦艦大和を終点とする帝国海軍艦艇の建造であり、数多くの 名艦艇の勇姿は皆様の御記憶にあると思います。 戦後、廃墟の中から再スタートした造船は当初から大きな発展の可能性を持っていました。それは 設備の被害が比較的軽微であった。 造船の技術力が保持されていた。 優秀な技術者及び熟練工を保有していた。 ことに加え、戦後の産業政策の中で海運/造船の復興が国策として支持されたからであります。又、発展 を支えた技術の面で産官学の見事な協力体制もありました。 戦後、急速に発展し貴重な外貨獲得に活躍した造船業は戦後11年即ち昭和31年(1956)に遂に造船 王国であった英国を抜き、建造量世界一の座を獲得しました。以後今日まで実に41年間その座を守り続 けています 戦後50年の歴史は極めて変化に富んだものでありますが、それを簡単にレビューした上で造船業の 現状、問題点、将来の課題と言ったものにふれてみたいと思います。 〔エピソード〕 旧海軍の技術将校の多くの方が、戦後造船の技術幹部として活躍されました。敗戦直後に大学の 造船科を卒業された多くの卒業生は工員として採用され、その後の発展期に大活躍をした。 資料1頁及び資料2頁は横軸に歴年、縦軸に世界、日本、英国、韓国の建造量をプロットすると共に 建造船や技術面の記録(資料1頁)と造船を取り巻く環境の変化を記入(資料2頁)した戦後の造船の歴史 であります。 戦後30年たった1975年に世界の建造量3,400万トンと言うピークがあり、これを境に前半が発展 全盛期、後半が縮少調整期となっています。又、人によっては15年毎に区切って最初の15年、1960年 迄を準備、調整期、次の15年、1975年迄を発展全盛期、次の15年、1990年迄を造船大不況、縮少 調整期、その後今日までを韓国との競合期と呼ぶ人もいます。 戦後昭和23年に計画造船が始まると共に、船舶の輸出も開始され、(昭和25年には最初の輸出 タンカーが引渡された。)ました。 戦争中の米国の造船を学習した結果として溶接工法ブロック建造方式が採用された結果、日本の 建造量は急速に増大し、昭和31年(1956)に遂に、それ迄造船王国を誇っていた英国を抜いて世界一 の座に着き、オイルショク、造船不況、為替の大変動等の世界経済の激変にも耐えて今日迄実に40年 余、その座を守り続けています。 昭和37年(1962)に第一回海運造船審議会が開かれ、石炭から石油へのエネルギー転換の方針の 下、急激に増大する石油需要を賄うためには多数の大型タンカーが必要になり、現有の設備では不足で あるとの答申がなされ、大型造船設備の建設と大型タンカー建造ブームが到来しました。 世界的にも石油需要の増大と中東戦争やズエズ運河問題等で大型タンカーによる石油輸送の必要性 が叫ばれ、世界的な空前のタンカーブームが到来したわけです。右上がり急カープで増大する石油需要を 信じ、欧州からの忠告には耳を貸さず、新鋭設備を駆使し続々と大型タンカーの大量建造を行った。正に 日本造船の栄光の時代でありました。 〔エピソード〕 当社に多くの新造船を発注した或るノルウェーの船主が居ました。 個人で会社を築いた船主であります。当時日本の大型設備と大型タンカーの建造状況を見たこの船主 は"これは大変なことになる。こんな状況が 永く続く筈がない。"彼は直ちに行動をしました。数多く持って いたタンカーを高値で一隻残らず売り払ったのです。2、3年後オイルショックで 破滅にひんした多くの船主 をよそに、彼は自分の財産を見事に守り抜きました。 近年、韓国が大幅な造船設備の増強を行い、現在の需給のインバランスの原因になっております。韓国 は日本及びヨーロッパからの強い忠告にもかかわらず、設備増強を強行しました。当時の日本にも同じこと をやったわけです。 昭和48年(1973)のオイルショックに端を発した石油需要の頭打ちは、たちまちにして船舶需給のすさ まじいアンバランスを来し、以後15年に及ぶ造船大不況を招来したことはよく知られています。日本造船 界はこの間正に地獄の苦しみを経験したわけです。 日本造船の破局を防止し、存続をかけて行われたのが2回にわたる設備削減と人員対策であり、又不況 カルテルでありました。 〔設備削減〕 先ず設備削減は運輸省指導の下に昭和54年(1979)と昭和62年(1987)2回行われ、1回目は 平均35%、2回目は約20%の削減が行われ結果として造船設備は盛期の半分以下46%になりました。 官主導で行われたこの設備削減は、よく護送船団方式と呼ばれ、マーケットの引き締めと殆どすべての 造船所の生き残りには効果があった一方、2つの大きな問題を後世に残しました その一つは日本が自から縮少したことは相対的に韓国の大幅な台頭を促したことであります。韓国造船 はいづれ発展の道をたどったでありましょうが、この日本の縮少が大いにプラスになったことは否定できま せん。二つ目は日本の造船所の大半が生き残ったわけでありますが同時にそれぞれが小粒になり、ドン グリの背比べになったことであります。 小粒になり過ぎた日本の造船所は現在、技術開発力や効率化の面で問題を抱えています。 〔人員対策〕 次に人員対策は不況に悩む民間企業独自の問題として(或る程度政府支援はありましたが)大きく2回 に分けて行われました。1回目、2回目共に人員数を半減すると言った大幅なもので(1/2x1/2= 1/4) ありました。 造船工業会の統計によると造工会員(18社36工場)の人員は昭和50年(1975)116,180人が10 年前、昭和62年(1987)に2万人強となり、昨年(1997)10月、遂に19,815人になったと報じています。 約1/6であります。 日本造船業の大幅なリストラを終えた1990年以降の世界造船界は、韓国造船業の発展や、中国、 東欧等の台頭により依然としてオーバーサプライの状況は変わらないが、比較的低位安定型で推移して います。 以上が戦後の日本造船業の歴史の概要でありますが、次にこのような大きな変動の中で造船業を支えて きた技術面についてみたいと思います。