36、済州島 2,009−12−20〜22

韓国のリゾート地として開発されていると聞いていた済州島の案内がきたので、衝動旅行した。距離等から国内旅行と殆ど変わらない。島の南部にあるロッテ・ホテルは韓国一といわれる規模の大きなリゾートホテルで、韓国が観光に力を入れていることが良く分かった。この島は、噴火によりできたそうで、韓国一の高さの漢拏山(ハンナサン・1950M)が島の中央にそびえ、土地質が溶岩、火山灰から構成されていてで貯水が出来ないので稲作には不向きである由。韓国一の蜜柑類の産地だそうだ。

12−20 

北部の済州市に済州国際空港がある。龍頭岩(北海岸の奇岩、風が強かった)→三姓穴(この三つの窪みから島の始祖の三神人が生まれ出たといわれる)→トケビ道路(錯覚から登りなのに下り坂の様に見える道路。お化け道路)→ロッテホテル

12−21 

ウェドルゲ(海岸の奇岩)→薬泉寺→天帝淵瀑布→シュりの丘→山房山と山房窟寺(標高395Mの切りたった安山岩の山、中腹に高麗時代に建てられた山房窟寺がある)

12−22 

済州民俗村→ソプチコジ→城山日出峰→万丈窟(大規模な溶岩洞窟、全長10,3KMのうち1KMが見学可能)

37、ハワイ 2,012−6−10〜15

家内が何処かに旅行したいと言うので円高のメリットを享受してハワイに行くことにした。欧米旅行は、体力的に無理だし段々と魅力が薄れてきた。
中国・東南アジアも主な所は行ったし重い中国料理は、血糖値が高いと言われているのであまり食べられない。むっとする気候は歓迎しない。
国内旅行より、円高メリットで比較的に安価で異なる文化を味あえる滞在型のハワイを選択した。私は、昭和42年以来、45年ぶり、家内は昭和64年以来、24年ぶりのハワイ訪問である。ハワイ(オアフ島)もすっかり変貌を遂げていた。
改めて、ハワイの歴史など調べたり、現地ガイドの話からハワイについて新たな知識を得た。
@1778年イギリス人・キャプテン・クックが来航。ハワイの存在が知られた。A1795年カメハメハ一世がハワイ王国を建国。B1820年多くの宣教師ガアメリカから移住、キリスト教文化を広める。同時に、アメリカ人のプランテーション農場の為の土地の収奪が始まる。C1840年憲法公布をして立憲君主制となる。D1843年イギリスがハワイの領有を宣言。Eフランスがハワイの領有を宣言。F1850年中国から組織的な移民が始まる。G1868年(明治元年)日本人移民148名がハワイに移住。H1881年(明治14年)カウカウア王が来日し,明治天皇と会見し、明治政府との間で正式に移民協定が結ばれた。又、この時西欧諸国からの侵略に危機感を抱いていた王は、カイウラニ王女と山階宮との政略結婚によりハワイ・日本の関係強化を画策したがアメリカとの関係悪化を懸念して日本政府は断った。I1885年(明治18年)初の官約移民が日本からハワイ渡る。J1891年、カウカウア王はアメリカに拉致され死亡(暗殺)。K1893年(明治26年)リリウオカラ女王が米国との不平等条約撤廃の動きをみせると、アメリカ人農場主らが海兵隊の支援を得てクーデターを起こし女王をイオラニ宮殿に軟禁。その時、日本は邦人保護を理由に、東郷平八郎率いる軍艦浪速ほか2隻を派遣、軍港に停泊しクーデター勢力を威嚇した。女王を支持する原住民らは涙を流して歓喜したと言われる。L1894年臨時政府は新憲法を発布しハワイ共和国を宣言した。M1895年ハワイ王政派が武装蜂起したが短期間に鎮圧、虐殺される。リリウオカラニ女王は逮捕・幽閉され、女王廃位、ハワイ王国滅亡。N1898年米西戦争で、ハワイの地政学的重要性を認識したアメリカは、ハワイ共和国を併合、ハワイ準州とした。以後、ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、パールハーバーに大海軍基地を建設した。O1924年(大正13年)排日移民法の施行により日本からの移民は不可能になった。それまでの移民は約21万人にのぼった。P1941年日本海軍が真珠湾を攻撃し日米開戦となった。Q1959年アメリカ50番目の州に昇格し本格的なリゾート開発が始まった。
ハワイの人口は約140万人、そのうち約100万人が首都ホノルルのあるオアフ島に居住。人口構成は@先住ハワイ・ポリネシア系:5,9%Aアジア人38,6%(フィリピン系,日系(13,6%)、中国系、ベトナム系)Bヒスパニック:8,9%C黒人:1,6%Dアメリカ・インディアン:0,3%E白人:24,7%Fその他:1,2%G混血:23,6%
であり、日系人13,6%はフイリッピン系の14,6%に次いで多く、原住民は5,9%と少ない。
経済的には、軍需、観光、農業が3本柱だが農業は廃れてきている。観光での日本人の存在感は高く、ひとり当たりの消費も圧倒的に多いそうだ。日系人も多く、ハワイ経済に貢献してきたので親日感情は極めてよいと思った。アメリカ政府が、意図的に、ニューヨークほかのホームレスをハワイに送り込んでいるとの話もあったが、気候条件もよく、自立して生活可能なのであり得ることだと思った。

6−10

8:00ホノルル着後市内観光。午後は、近くのアラモアナ・ショッピング・センターを散策。夕食は田中オブ東京で鉄板焼きショー。プリンスホテル前は、ヨットハーバー。

6−11

バスでオアフ島の一周観光。昭和16年12月8日の日本海軍の真珠湾攻撃で日米開戦したが、少年の頃の私の胸をゆさぶった記憶も鮮明なパールハーバーに立ち寄った。ドキュメンタリー映画などで見たのより小さな内海の感じで意外だった。夕食はマジック・オブ・ポリネシアで。圧倒的に日本人観光客が多かった


6−12

ワイキキトロリーバスのピンクラインを使い、市中でショツピング。海岸の散歩。夜はサンセットディナークルーズ。

6−13

終日フリーで、他の島に行こうと思ったが、島巡りでも、セキュリチーチェツクが厳しく、空港の発着に時間を消費するとのことなので、諦め、ワイキキ・トロリー・バスでゆっくりと島巡りをすることにした。このバスは市の中心を巡るピンクライン、イオラニ宮殿などの史跡を巡るレッドライン、市の郊外のダイヤモンドヘッド等を巡るグリーンラインがあり便利だが、バス停の名前が出ていない、時刻表の掲示がない等不親切を感じた。これがハワイ式だそうだ。ピンクライン、グリーンラインに乗り、ハワイの水族館に立ち寄った。


6−14

10:14ホノルル発、デルタ航空のエコノミークラス席が満席で、空けるために我が夫婦はビジネス席に移してくれた。

6−15

13:05成田着。所用時間は8時間。