ふとした時に、猛烈に誰かに思いを聞いて貰いたい時がある。時には文章にまとめてみることもあるが、大抵は、その時の衝動が過ぎ去ると、いつかは忘れてしまう。ホームページは、その時考えたことを書き留めておく良い手段だと思うので、これからは逐次、書き残していくことにしたい。
1、イラクの戦争に思う
イラクでの戦争は、ベトナム、アフガニスタンでの戦争と同じく、長期化、泥沼化の様相になってきた。ハイテク兵器で武装していても、米英軍は苦戦するだろう。
その理由は
1、いくらハイテク武器を使用しても、扱うのは人間であり、ロボットではない。今まで良い環境で育ち、生活 してきた米英人が、クウエートの劣悪な自然環境のもと、野営状態で数ヶ月も滞在し、疲れている。出動 命令で進軍すると、今度は砂漠の砂嵐、しかも敵がどこから撃ってくるかも分からない。戦争目的も不明 確で、世界の人々が戦争反対で誰の為に戦っているのかも分からない。死んだらまさに犬死。士気も高ま りようがない。疑心暗鬼、従って同志撃ち、事故が多い。人間の心を持っていたら、人は殺したくない。 戦闘用ヘリコプターのアパッチの乗員が捕虜になった映像が有ったが、これは撃ち落されたのではなく、 戦意を失って不時着したものと想像される。
2、一方イラク人は、自然環境に慣れ、戦争にもなれ、しかもフセインのため戦うかはともかく、自分の家族 を守る為戦うという、使命感がある。戦かわなかったら家族が殺されるとの恐怖感がある。いくら民間人 は殺さないといっても、戦争ではそうはいかない。
3、更に、自爆テロをも辞さない宗教的信念に裏打ちされた、アラブの義勇軍がイラクに流入している。米英 軍に対するテロ活動も活発になるだろう。民間人か、テロリストか区別がつかず、無差別に攻撃するよう になると、民間人の死傷者も増え、戦いは泥沼化する。米英国内の反戦運動は激しくなり、収拾がつかな くなりそうである。
4、反フセインの反乱は期待できそうもない。民衆は米英に占領されるよりフセインの方がましだと思っているのではないか。いままで何か有ると爆撃され、経済的制裁で苦労しており、米が悪者になっている。 戦いによっては問題は解決しない。ベトナム、アフガニスタンの教訓が生かされないのは残念である。(2003-3-30)
2、イラク問題について
イラクの戦争は、表面上は3−30に予想したよりは早く終わった。戦力の圧倒的な格差と、フセイン独裁政権が民衆から心から支持されていなかった為であろう。そこが、ベトナムとは違うところと思う。
しかし、米英軍が解放軍として、歓迎されているのかといえば、そうではないようである。5月のブッシュ大統領の戦争終結宣言以降も、毎日のように米英軍は、ゲリラ攻撃を受け、死傷者が出ている
勿論、イラク人も死傷している。このような状態が何時まで続くのか、見通せない。この件について、日本の取るべき立場は、あくまでも国連中心主義であるべきではないか。日米同盟の重要性は承知しているが、ある時は国連を利用し、ある時は国連を無視して行動する米国とは、常に一線を画した原則を持たなければならないと思う。平和憲法を持つ国として、それなりに世界から評価されてきた日本の立場は守り続けなければならない。この国連中心主義に、表立って反対できる国は無いはずである。(2003-8-17
3、昭和6年生まれ
自分では、まだ若いつもりでいるが、客観的にみれば充分に老人になるのだろう。
太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言った)が始まったのが小学校4年生の時(昭和16年12月8日)、ラジオから流れる開戦を報じる大本営発表をわくわくする思いで聞いた。
ポツダム宣言受諾の放送を聞いたのが、中学2年生の時で、勤労動員で京城の龍山小学校で、暗号に使用る乱数表を作っていた。
確か、正午から天皇陛下のお言葉で、重大発表があるからとの知らせは事前に知っていた。その時間になると、先生達はラジオを聞きにどこかに集合した。
生徒は直接聞かなかったが、放送後、先生たちは、深刻な、緊張した面持ちで現れ、作業を中止し、直ちに自宅に帰るようにとの指示をした。
何か大変なことが起きたらしいとは思ったが、具体的には分からず、自宅に戻り、両親の話、再度のラジオ放送などから日本の敗戦を知った。
開戦時のハワイの真珠湾攻撃、マレー沖海戦を始め、戦争の推移については、関心が高く、地図を開いては確認したものである。
従って中国(当時は支那と言った)、東南アジア、北太平洋の地理は、戦争との関連で当時覚えたものが多い。
小学校3年生の時(昭和15年)には、紀元2600年の祝賀祭に学校として参加したし、支那事変の南京陥落を祝賀する提灯行列にも、連れられて子供として参加した。
戦前、戦中のことを書き出すときりがないのでここで止めるが、言いたいのは、昭和6年生まれは、戦前、戦中を体験し、敗戦及び敗戦後の食料不足を中心に、厳しい体験もした。
そして、社会人になったのが昭和29年、戦争の廃墟の中から、経済復興の尖兵として活動、経済の高度成長とその後のバブル経済崩壊を経験した。
よく三現主義、即ち、現場で、現物を見て、現実的に考えるのが大事と言われるが、昭和6年生まれは、まさに戦前、戦中、戦後を書物などからでなく、実際に体験した強みがあると思う。
今、イラクへの自衛隊派遣、憲法改正等、戦後を見直す動きがある。修身教育反対など、行き過ぎた過去の否定の是正、日本人の伝統的なアイデンチィチィの確立、教育の改革など問題山積である。
昭和一桁生まれは、戦前、戦中、戦後の体験者として、冷静に発言していくべきだろう。
こんな経験もしたという意味で、母の遺品の整理から、面白いものを発見したので、ここに記載する。
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終戦後、朝鮮の京城からの引き揚げに際し、占領軍のアーノルド少将の乗車船許可証及び予防接種の証明書。
引揚日は、昭和20年11月6日、中学2年生、15歳の時であった。京城から釜山まで、有蓋貨物車、釜山から博多まで貨物船、博多から大阪まで無蓋貨物車(雨に降られた)、大阪から青海まで客車(超満員、心の荒んだ人も多く、乗せろ乗せるなの押し問答の末、窓ガラスを割って入ってきた人もいた)。
姓が水沼になっているが、叔母が京城の軍司令部に勤めていて、手を回し、軍人家族ということで早期に引揚出来るようにしたらしい。米軍は、日本軍の抵抗を恐れ、早期に軍関係者を日本に引揚させたかったとの説があるが、正確には、事情は不明。(2004−3−6)