
昭和6年南満州の安東市で生まれ、その後、北朝鮮の平壤に移動幼児期を過す。鴨緑江沿いの新義州で小学校入学。4年生の2学期の時、京城元町小学校に転校、卒業。京城の龍山中学校に入学。
昭和20年11月、2年生の時、日本の敗戦に伴い日本に引揚。和歌山県立海南中学校に転校、3年3学期新潟県立糸魚川中学校に転校、4年終了で、金沢の第四高等学校(旧制)理科甲類に入学、昭和24年に学制変更に伴い、1年で修了。通称24修組と言う。
昭和29年東大工学部卒業、草創期の自動車メーカに就職、主として開発業務に従事。平成7年に約42年間の会社生活を終了、週休7日制を楽しんでいる。
学業時代の思い出・関連した感想
*小学校二つ、中学校三つほか、多くの学校を遍歴したので、その間、多くの友人に巡りあい、現在のリタイヤ後の生活を豊かにしている。又、環境の変化に対する柔軟性も培われた気がする。
*北朝鮮の現状を見聞する時、心が痛むが、早く国を解放、自由化して皆が幸せになるように祈る。韓国には、昭和51年業務出張、平成2年観光、平成6年母校訪問(龍中)、平成10年三星自動車(釜山)、平成21年済州島を訪問しているが、嫌な思いをした事は無い。
釜山から京城までのセマウル号の車中で文芸春秋を読み、北海道と漁業関係の取引をしていると語った青年、地下鉄では年寄りに進んで席を譲る若者。母校訪問では、親切に校内を案内し、現状を説明してくれた校長。
お土産に朝鮮人参を求めに入った店で、こちらが日本人だと分かると日本語の話せる年寄りを奥から連れてきた娘さん、得意そうな年寄りの顔。ソウル郊外の広大で緑豊かな環境の中に展開した新しいソウル大学。活力に富み、向上心の旺盛な若者達、この国は今後も成長を続けると思う。
*元町小学校では、高学年に入ると仁川試力行軍といって京城から仁川まで、約40kmの道を歩かされた。又、遠足は、冠岳山など約12kmは歩いた。昔の子供たちは、色々と鍛えられたし、その中で忍耐力、強靭な精神力も醸成されていったのだと思う。
*龍山中学はなかなかのスパルタ教育で京城大学予科、高校(旧制)、陸士、海兵その他への進学が多かった。クラブ活動は、剣道部に入り手ほどきを受け、鍛えられた。戦後、社会人となって再開、剣道三段まで進んだが、業務多忙もあり、ここでストップ。11月3日の全国剣道選手権大会は、欠かさず観戦又はテレビ観戦している。
スポーツとしての剣道と、実戦の為の剣道(術)は異なり、昔からの剣の教えは色々あるが、刃の下をかいくぐっての戦いに強くなるには、技プラス恐怖を乗り越える精神力が大事。幕末に活躍した新撰組について興味があり、色々と読んでみたが、強さの秘密に様々な精神的要素があると思う。この件では、別途書いてみたい。
*海南中学の2・3年の時、自分の将来についてどうすべきか、真剣に考えた。特にアドバイスしてくれる人も無く、知識も乏しいので、思考範囲は限られていたが、上級学校に進まなくてはいけないのだろうとは思った。この中学は、戦争の影響で、疎開者も多く、心が荒んでいた生徒も多かったように思う。農作業の時、7・8人の 生徒に取り囲まれ、いじめに遇いそうになった。こちらも敢然とと立ち向かったので、仲裁に入る者も出て事なきを得たが、苦い思い出である。このような時には、弱みを見せないほうが良いらしい。又、同じ京城からの引揚者で京中にいた生徒から「お前金を持っているか?」と言われた事がありびっくりした。昭和21年12月南海大地震に遭遇。未明の4時頃で、衝撃で起こされ這うようにして布団から這い出した。カラン コロンと瓦などが路上に落下する音を今でも鮮明に思い出す。海に面した海岸部は、津波の被害に遭った。
*糸魚川中学の約1年間は、四高進学を目指して受験勉強に集中した。わが生涯で、これほど勉強に熱中した時代はない。従って強烈な思い出となっている。
学校を終え、自宅に戻るのは3時か4時頃だが、4年1学期までは必ず夜12時まで、その後の期間は深夜1時まで座り続けで勉強した。進路決定は単純で、理科系科目は、比較的勉強しなくても出来たが、文科系の科目の、歴史(要暗記)、英語(単語・文法を覚える要あり)などは、とにかく勉強しなければならなかったので、理系を選ぶ事にした。特に目標があったわけでも、特に何が好きというわけではない。このような進路選択は、その後も続き、その後のキャリアは偶然でしかない。本当は、子供の時に強烈に好きなことがあり、その目標達成の為頑張るようになったほうが良いのだと思う。
受験科目に対し、学校の学習進度は遅れていたので、時間があれば本屋に立ち寄り、参考書を求めた。勉強の大半の時間は、英語に割いた。微分積分学は参考書による自習。この独学の習慣はその後も続き、高校、大学とあまり授業に出ないで、試験の時には独学で対応することが多かった。これは、社会人になっても続き、仕事上の必要から、盛んに勉強した。学生時代はニーズが分からず勉強を押し付けられるので、面白くないが、社会人になってからはニーズが明確なので、勉強が楽しみになる。学生の時より社会人になってからの方が勉強したようだ。ドイツ等では、実際の経験と学校での学習を組み合わせた教育をしている由、聞いた事があるが適切なやり方だと思う。
*努力のかいがあって、念願の四高に入学した。糸中からは4修の二人だけで、しかも偶然に同じクラスになった。
当時は、一次試験として、入学適性試験と言うのがあり、一月頃にあったと思うが、たまたまその時猩紅熱にかかり受験できなくなり、母が大変心配したが、追試験により救済された。この適性試験は、直感でどんどん処理しなければならない問題が多いが、この種のテストは私は苦手。一応合格点をクリアしたが、あまり出来は良くなかったと思う。
四高の一年間は、我が人生で最も有意義で、刺激的な時だった。学校に行って真面目に勉強し、良い成績をとるといった価値観しか知らない16才の少年にとり、ガーンと一撃を受けた感じであった。
戦後の海外からの引揚者、陸士・海兵など軍関係の学校からの転校生などを受け入れる為に(最近知ったのだが)、日本冶金(株)の空いた社員寮を借り上げて設置した至誠寮に入寮した。この寮は、東金沢にあり、校内にある時習寮とは違い、通学にかなりの時間を要した。
入寮の為東金沢に降りた私を迎えに来たのは、後に直木賞作家になったTさん、全寮委員長のNさんの部屋に案内され、ここだと放り込まれた。見渡すと汚い布団にくるまって、寮生がごろごろしている。手持ち無沙汰にじっと座っていると、一人が突如として大声で「腹が空いた・・」と起き上がる。急いで母が持たしてくれた貴重な大福餅を取り出すと、おおっとばかりあちらこちらから手が伸びてきて瞬く間になくなってしまった。強烈な入寮の思い出である。その晩、布団にくるまり、眠っていると、深夜に突如として猛烈な雄叫び、太鼓、金属の音、何事が起きたかと思ったらワッシヨイ・ワッシヨイと先輩寮生の攻撃。布団にじっとくるまっていたが、大分上から踏みにじられた。これが名物の歓迎ストームだと後で知った。その後も、何かあるとストームをやり、私も参加するようになった。若いエネルギーの発散である。
寮では、人生を語り、哲学論争をし、バンデ・ベルデの回し読みをした。食べ物が無かったので、蛇、蛙を裂いて焼いて食べる人もいた。たまに田舎からお米が送られてくると、飯盒で炊き、エッセンあるじーと声をかけると、皆スプーンを持っていてワーッと駆けつけ、平らげる。生意気に煙草を吸う寮生も多く(私も覚えた)、残渣(吸殻の事)ないかと部屋に尋ねてくる。学校に行かず、寮でごろごろしている寮生も多かった。もたもたしていると、先着順なので、下駄が無くなる。片足だけ下駄を履き、ぴょこんぴょこんと歩いて登校する寮生もいた。何しろ、試験期に入ると、勉強するやつは馬鹿だとばかりに、外に連れ出されたり邪魔が入る。至誠寮生は、学校の成績が悪かったのではないか。私も寮の思い出は色々あるが、教室での記憶があまり無い。単位が取れたのが不思議だ。
1年に1回寮祭をやるが、多士済々で、気の利いた面白い寸劇も多かった。至誠寮寮歌も七つ残っているが、作詞、作曲とも素晴らしいものが多い。
時節柄、マルクス・レーニン主義、共産主義の影響を受けた寮生も出て、ライフワークとした人もいる。私も一時期、その種の本をいろいろと読み、将来は皆が幸せになる社会主義の世界になるののではないかと真剣に思った事もある。金沢市民は四高生に優しく、少々いたずらしても大目に見てくれた。地方都市の良さである。
寮を会社に返すことになり、2学期から下宿した。下宿先が、東大13年卒(三高)の金沢地検の検事さんの家で、ここで囲碁の手ほどきを受けた。近所の先輩、友人も来て碁を打ったり、出かけていって麻雀をしたりした。何事も覚え始めは楽しく、こんなに面白い競技があるのかと思った。思い出をたどっても、学業の記憶が出てこない。ドイツ語を初めて習ったり、色々あったのだと思うが、鮮明な思出がないということはたいした事ではなかったのだろう。
*四高24修後、新制大学となった東大と金沢大を受験した。普通新学期は4月に始まるが、スタートが6月か7月か、かなり遅れたと思う。
東大受験では、受験科目は英語・数学・理科(選択制で物理を選ぶ)・歴史(西洋史)・国語だったと思うが、物理では、私の独学した参考書にはあまり記述の無かった問題が出て出来が悪く、他はまあまあだったが、自己採点しても合格点すれすれの感じだった。
なかば予想通りとはいえ、一緒に受験した川崎が実家のT君から、「ドッペリふたりいさいふみ」との電報を受け取った時はショックだった。初めて味わった挫折感で一晩中悶々として眠れなかった。
金沢大には合格し、金沢城内にあった兵舎あとを使った憬真寮に入寮した。ここには、六高・富山高・金沢工専ほか受験資格のある学校からも来ていたが、やはり四高出身者が多かった。初代の全寮委員長には先に述べたT君が、私は賄委員長になった。賄部には、通称「まんちぁん」というぷよぷよとした感じの紅一点の女性がいた。
工学部だったが、ドイツ語ほか四高一年と同一程度の授業だと、馬鹿にして、授業には出ず、寮で、麻雀したり、碁を打ったり、誰かの部屋にたむろしてワイワイ・ガヤガヤしていた。至誠寮での四高の先輩を尋ねたり、又は尋ねて来たりした。麻雀などは、七・八連直、徹夜することも多かった。その仲間が、その後何十年ぶりかで 再会した時、大学教授になったり、医者になったり大成した様子を見るときその変わりぶりに驚く。至誠寮の先輩のNさん、Sさんと一緒に近江町市場の中で、アルバイトした。Nさんは、その時面倒をみてくれた女性と結婚する事になる。
*金沢大の3学期に、再度東大を受験すべきかSさんと相談したら、「その方が良い」と言われたので、1月以降、自宅に戻り、再度受験勉強をした。金沢大の担任の教授に、同様に東大受験する旨、話したら、後で考えると当 然だったと思うが、無理だから止めておけと言われたのにはむっとした。
前年の物理選択に懲りたので、今度は化学を選択する事にした。その結果、自己採点で、かなり余裕を持って合格したと思う。一年経過したから、それだけ実力がついたとも思えず、試験結果は運によるものと思う。受験の時会い、更に合格発表を見に行って連絡してくれる手伝いをしたのは、たまたま共通の親戚になる家に遊びに来ていた、今の家内である。それがきっかけとなり、上京して駒場寮に入寮してから、映画を一緒に見に行ったり、時々会う事になった。千葉県佐原市の家内の実家にも遊びに行った。映画では「赤い靴」「戦争と平和」「自転車泥棒」など、有楽座、名画を上映していた新宿の地球座などはよく行った。奨学資金を貰っていた貧乏学生、お金をどう負担していたか定かではないが、私よりは裕福だった家内がもつた分が多かったかもしれない。よく、ゲル欠になり質屋に行って、お金の工面もした。質草は家内の父からプレゼントされた、程度の良い鞄だった。駒場寮で同室だったのは、新日鉄のNさん、OBになってからマイクロソフト社のオフィシアル・トレーナの資格をとり、高齢者にパソコンを教えている由、敬服。他に旭化成のYさん、王子製紙のTさん、石油開発公団のTさん(四高・24修・文乙)、同期では日本開発銀行のI君、気象庁のK君。新日鉄には、元町小で同組、龍中と進んだH君、龍中で同組のM君もいて、H君とはゴルフ等やっている。
*本郷の専門課程に移るに際し、希望を出し調整する事になるが、当然成績が考慮される、機械、電気、建築は人気学科だったし、化学系はあまり好きではなく、船舶工学科を選んだ。子供の頃から、船が好きだったわけでもなく、たまたまの情けない選択である。
自動車会社に就職し、自動車設計・開発の経験を積んでから、当時の船舶工学科の教授科目を振り返ると、その位置付けがよく分かるが、当時は意味が充分には分からず、あまり勉強に身が入らなかった。関心の強いことについてはともかく、あまり興味の無いことについての一方通行のレクチュアーには私は不向きで集中力を持続できないようだ。好きなことを独学するのは、自分のペースで進められるので良い。効率は悪いのだと思うが。
会社人間として
*昭和29年自動車会社入社。船舶を出て自動車屋になったはしり。
*昭和29年〜47年主として車体設計・車両設計、戦後の自動車産業の草創期で、固有技術も無く、外国車を分解、スケッチしたり、海外の自動車に関する本、雑誌で勉強した。路上に、外国車が駐車していたら、よく下からのぞいたものである。同業他社の車も、興味を持って分解調査した。無からのスタートで、色々と試行錯誤して、面白く、やりがいのある時代だった。一時期、当初のロケット開発に
も携わり、ペンシルロケットの設計をした。西千葉の東大生産技術研究所の糸川研究室に通ったり、日本には参考書など無いので、原書で超音速・空気力学を学び、神田の古書街で戦前の航空力学の本を探し勉強した。二兎は追えないので、自動車専業になったが、若き日のよい思い出になっている
*昭和48〜54年試作部門。自動車の開発サイクルとして、設計→試作→実験→設計に問題点をフィードバック があるが、実験用の、エンジン、トランスミッション等のユニット、車両を製作するところ。多種少量の、あらゆる工程を持つ工場。ここで、設計だけにいては分からなかったであろう製造技術、工場のマネージメントを学んだ。又この間、自動車の開発期間の短縮及び効率化の為、車体開発のCAD・CAMにも取り組んだ。
*昭和55年、突如スペインのモトールイベリカ社担当として事業展開の仕事をやれといわれ今迄経験したことがない事なので関係の資料を細かく集めた。スペイン語を、急ごしらえにに学んだが、資本参加したスペインの会社の役員会で、スペイン語で業務報告をされたのには参った。当初はスペイン・バルセロナ駐在の予定で居住用の住宅も探したが、設計関係者が駐在するのは時期尚早であるとの会社の方針変更で駐在はしなかった。その後、メキシコ、オーストラリア、スペイン、イタリー、米国、英国などのプロジェクトに関係した。主として、現地生産のための、開発関係の技術援助である。この間、海外生産が企業にとって、どういう意味があるのか考えた。苦労しても、雇用機会は海外につくり、日本人の雇用は僅か。現地で利益をあげれば、連結決算としての資本投下に対するリターンはある。現地生産の為の部品・設備の輸出による利益、技術援助料のゲインはある。
*昭和59年関連の自動車部品メーカに転出・役員となり、平成7年に約11年間の勤務を終える。ここは、内装部品製造が専門で、技術的には樹脂部品加工。米国、英国、台湾、メキシコ、中国にも進出している。特命により社内のコンピューター・システムの改革を推進。
